そばつゆ一気飲みブログ

言葉は翼を持つが、思うところに飛ばない

「自分は何者にもなれない」と本当に信じているなら今すぐ散歩しろ

 どうやら社会とかいう場所には、自分を「何者にもなれない」と卑下している輩が一定数いるらしい。けしからん!

 

 何?お前自体がそうだと?

 

 

バカヤロー!!!!!!!!!!!!!!

 

 散歩しろ!!!!散歩!!!!

 

 俺は毎日1万歩は散歩しているからか「私はもしかしたら釈迦の生まれ変わりかもしれない」と思うことが1日に5回はあるぞ!!!!

 

 道は無!!

!!!!!!!!!!

 

今すぐ歩け!!!!!!!!クロマニョン人くらい歩け!!!!!!!!!!

 

 

 

目次

・「何者にもなれない」という危機意識を持ってるだけ、他の人より数段マシ。だから歩け!

・そもそも何者ってなんだよ?お前は定義を言えるのか?言えないなら歩け!

・曖昧な幻想を追うな、目の前のパスタと本を愛せ。そして歩け!

・自分の蓄積を愛せない人間は自滅する。したくなけりゃ歩け!

・散歩は最古にして最強のライフハック。とにかく歩け!

・「社会人」「大人」なんて、19歳以下と20歳以上を恣意的に分断するくだらない言葉に過ぎない。それよりも歩け!

・おわりに:人生は「自分は何者にもなれない」と悟ってからが本番。さあ、歩け!

 

 

 

・「何者にもなれない」という危機意識を持ってるだけ、他の人より数段マシ。だから歩け!

 

 そもそも「何者にもなれない」なんて実存哲学的なことで本気で悩む奴はそんなにいない。死ぬ寸前まで追い詰められる奴に至っては天然のタスマニアデビル並みの希少性だ。もし君が何者にもなれない苦しさで今にも死にそうなら、君の自己愛の強さは最早芸術品だ、誇ってもいいだろう。何の役にも立たないが。

 

 インターネットではエコーチェンバー現象によって同じ意見を持つ人間が集まりやすい。その結果「同世代の人間は皆自分と同じ悩みを抱えている」と勘違いしてしまうのだろう。

 

 だが少し周りの世界に目をやれば、存外「何も考えてない人」が多いことに気がつく。無批判に学校に行き学校に通わせる人、無批判にマスメディアの報道を受け入れる人、無批判に快楽と競争を求める人、そして無批判に他人に「お前は何者にもなれない」と言える人……

 

 彼らは「集団の中にいること」しか自分の存在価値が無いと本気で信じている危うい人間だ。 インターネットの匿名性が及ぼす万能感を振り翳して、自分は何もしていないのに何かをしている人を平気で糾弾し、社会を啓蒙している感覚に陥っている只の凡人だ。肉屋を支持する豚だ。

 

 そんな人間の姿は見て、あるいは自分自身がその一員になってることに気がついた貴方は「そろそろ私ヤバイかな?」と無意識のうちに感じていたのだろう。そんな貴方をRescue meできる究極の解決法がある。散歩だ。

 

 

 お前は他の人よりうーんと聡明なの。分かった?分かったら散歩しろ散歩!!!吐くまで歩け!!!靴底がなくなるくらい歩け!!!!!

 

 

・そもそも何者ってなんだよ?お前は定義を言えるのか?言えないなら歩け!

 

 「何者にもなれない」とは、何なのだろうか?

 

 立派な肩書きを持つことだろうか?とりあえず自分一人の力で生きていけるくらいの経済力を得ることだろうか?作家や漫画家のように「何かを生み出す」ことだろうか?

 

 世の中そんな奴は山ほどいる。山ほどいるが、大抵暗い顔をしている。他者から見れば羨ましい立場でも、当事者からすれば当たり前の日常に過ぎないからだ。

 

  結局、私が行き着いた答えは「『自分は誰にも必要とされていない』と自分が感じていること」だった。

 

 なるほど、そう措定すれば「不動産王で年収20億円だが、私は何者にもなれていない」ということもあるだろうし、「僕は小学生だが、何者かになれていない訳ではない」ということもあり得るだろう。他者に言う場合は「『その人は誰かに必要とされている』と自分が判断している」時、人は他者に対し「貴方は何者にもなれていない」というのだろう

 

 だが、こんな定義に一体何の意味があるのだろう?「自分は何者にもなれない」と泣訴する人はたくさんいるし、他者に対して「お前は何者にもなれない」という言葉もたくさん聞く。だが、「私は何者かになっている」とか「君は何者かになっているね!」と肯定的な文脈で使われることはまず無い。 こんな不幸しか生まない言葉を使うこと自体が、そもそも何の役にも立たないのではないだろうか。

 

 

 ね?「何者にもなれない」なんてくだらない概念でしょ?そんな曖昧模糊とした言葉よりもっと現実的に得られる幸福があるよね、それはもちろん散歩だよね。

 

 

・曖昧な幻想を追うな、目の前のパスタと本を愛せ

 

 結局のところ、未来の自分なんて分からないし、「自分は何者かになれるか」などという限りなく勝算の低い賭けに挑む必要性も皆無だ。貴方はどうあがこうが今、そこにいる。仕事がなくなったり退学したり刑務所に入れられた程度ではそうそう死にはしない。

 

 そんなことよりとりあえず今、目の前のものに意識を向けてみないか。これは何も「今を楽しめ」とか「明日のことは考えるな」といった刹那主義者になるための素敵なレクチャーをしているわけではない。

 

 肩の力を抜いて、ちょっとだけマインドフルネスに生きてみないか。換言すれば、曖昧な概念や未知なものへの恐怖を一旦取り外し、目の前の文章や、会話や食事にもっと真摯に挑んでみないかという提案だ。

 

 テレビやスマホという注意をそらせる物から一旦離れて、目の前のパスタを食べることに集中するんだ。プリプリとした噛み応えのデュラムセモリナに、シンプルなオイルソースがうまく乳化されて調和している。塩加減はどうだろうか。量は多いだろうか、少ないだろうか。

 

 マインドフルネスなものの捉え方は「時間」に対しても勿論可能だ。未来に対して漠然とした不安を追うのではなく、明日一日の計画を練ってみるんだ。7時から8時の間に起き、朝食を食べ、3分間歯を磨き……と言った具合で。

 

 そうして一つ一つのことをシングルタスクで片付けて行くと、少しずつ自分の頭の中の「世界」や「時間」の解像度が高くなってくるのを感じないだろうか。そうなればしめたものだ。君は「パスタ」と「明日」について、より確実で経験的な知識を得ることに成功したのだ。そういう解像度の高い目印がたくさん存在すると、脳内世界は整理され、どんどん歩きやすくなる。

 


 ところでパスタを食べたら食後の運動がしたくなるよね。そんな時役に立つのが君の脚だ。10分も歩けば効果てきめん、清原もびっくりのセロトニンパラダイスが君を待っている。

 

 

・自分の蓄積を愛せない人間は自滅する。したくなけりゃ歩け!

 

 私が「アイデンティティの危機に瀕する10代〜20代」について、書籍や当事者のツイート等を読み漁って直感したことがある。

 

 それは「アイデンティティの欠乏は、自分の歴史への軽視から起こる」ことだ。例えば、日本では大学院で博士課程課程まで進んだ人や研究職の方の自殺が非常に多いのだ。

 

 もちろん日本のアカデミズムが未曾有の危機に瀕していて、ポスドクや研究者の待遇が極めて悪いことは私も(当事者ではないから完全にとは言わないが)知っている。

 

 だからといって、自ら命を絶つことはないだろう。貴方には貴方にしかない「蓄積」があるじゃないか。

 

 貴方は自分のことを、「自分と同じ肩書きの他の人」と全く同じ物質だと勘違いしているかもしれない。そして同じ肩書きを持つ周り人々と比べ自分が劣っていたり、その結果肩書きを失ったりすることは死ぬのと同等の苦しみだと考えている。だがそれは違う。貴方の知識や趣味、読書歴や好きなゲームやブランドや恋愛経験、それらを全て内包している存在は貴方だけだ。

 

 貴方は自分では気づいていないかもしれないが、貴方が思っている以上にめちゃめちゃユニークだ。辿ってきた歴史も、今の姿も。そういう自分のユニークな「蓄積」を愛せないうちは、アイデンティティ形成への道など開くはずもない。

 

 私は他人に誇れるような学がないから、大学院生や博士なのに経済状況程度の理由で自分を卑下している人を見ると「バカか!!!!」と頭を叩きたくなる。叩いたついでに小卒くらいにクラスダウンしてくれないかな、とか思う。

 

 私は容姿が良くないから、顔がいい奴が不幸そうな顔をしてるとアンパンマンの要領で自分の顔を投げつけて交換したくなる。交換したついでに生殖器カレーパンマンにならないかな、とか思う。(マジで何も思いつかなかった)

 

 だが私は、そんな私の蓄積を愛している。私は好きな本や映画について何時間でも語れる自信があるし、私の知識は偏っているが故に唯一性が高いと信じている。私の今までの人生は相当ユニークで面白かったと信じている。

 

 これは「未来や自分に対して、不確実な信頼を根拠なしに持て」ということではない。ビジネス書や自己啓発書が言う「とにかく自分の成功を信じろ!イメージすれば全て叶う!」なんてのは嘘八百もいいところだ。ああいった本を100冊読んだって貴方はビルゲイツにはなれないし、北川景子似の彼女や玉木宏似の彼氏は出来ない。私が言いたいのは、社会的に成功しようがしまいが、その成功と失敗の軌跡を愛していればそれでいいんじゃないか、ということだ。

 

 ショーペンハウアーの言葉を借りれば 、「世界」や「社会」など所詮は貴方の脳が生み出す「表象」に過ぎない。貴方が死ねば貴方の表象としての世界は消滅する。貴方の脳と貴方が知覚する世界は一連托生なんだ。だからこそ自分の脳内世界を愛せない限り、世界も貴方を愛してはくれないだろう。

 


 ところで人生における最良の「蓄積」って何だと思う? それはね、「歩数」だよ。僕は1日の終わりに歩数を確認してエクスタシーに達するのが日課なんだ。とっても気持ち悪いね。

 

 

 

・散歩は最古にして最強のライフハック。とにかく歩け!

 

 流石にそろそろ散歩の話をしようと思う。とはいえ散歩の素晴らしさなんてネットで検索すればアホほど転がっているので、やっぱりやめよう。

 

 でもやっぱりちょっとだけ話そう。

 

 我々人類はその700万年もの歴史のうち、699万年以上を狩猟採集民族として暮らしてきた。

 

 狩猟採集社会はきわめてシンプルだ。彼らは10人程度のグループで生活する。普段は僅かな木の実や穀物などを取り、数日に一回狩りをしてタンパク質や動物性脂肪を確保する。定住はせず、場合によっては1日20キロ以上歩くこともある。

 

 こう聞くと過酷な感じがするが、実は違う。「彼らは文明社会で暮らす我々より遥かに幸福だったのではないか」これが私の持論だ。というのも、クソ愚かな文明人と違って彼らは「とどまることの危険性」を本能的に理解しているのだ。

 

 同じところに定住すれば衛生環境が悪くなり、病気になる。同じ場所で食べ物を取り続ければ植物や動物がいなくなり、生態系が破壊される。立ったままや座ったままでは血流が滞り、筋肉も衰える。だからこそヒトは狩猟採集という「移動し続ける仕組み」の中で700万年も生きながらえた。

 

これが「環境が彼らにそうさせた」のか「彼らがそう学んだ」のかは生物学者に解釈を任せるとして、少なくとも言えることは、私たちはそうやって循環型の生活を送っていた生物のDNAを保有しているということだ。

 

 私は根本的に、「社会」とか「責任」とか「幸福」といった概念を信用していない。人間など所詮、少しお利口な哺乳類の一種に過ぎないからだ。その物差しを導入することで我々の生活がより豊かで自由になるのなら信じることも吝かでないが、大半の人間は社会に押しつぶされ、責任を押し付けられ、幸福を感じられず自縄自縛になっているだけだ。

 

 フランスの哲学者ルソーの根本思想に「自然に帰れ」というものがある。これは決して「文明はクソ!自然状態最高!全員今から狩猟採集民になろう!」というものではない。分かりやすく言えば「今更人類は原始社会に逆行することは不可能(滅亡する方がまだ簡単)だし、文明が悪いっつったってそれを作ったのは他でもない人間なんだから、とりあえずその利便性は残したままで自分たちの内的な自然を取り戻そうぜ!」というものである。

 

 今から300年も昔の人物であるが、彼の慧眼は文明社会の欺瞞を見つめ、その上で現実的な解決策、つまり文明と自然の共存方法まで考えていたのだ。とても5人の子供を孤児院の玄関に置き去りにしたクズの思想とは思えないね。

 

 我々は今、これまでに無いほど大きな時代の転換期に立たされている、と錯覚している。実際には、氷河期や革命や戦争など、現在以上に変化が求められ、生存が困難だった時代は山ほど存在する。私たちが本当にすべきなのは、思想や思考の枠組みをファッションのようにコロコロ場面変化に応じて付け替えることだろうか。それとも人間という生物の本来の姿を、忘れそうになるたび再確認することだろうか。この問いに応えようとすれば、君の身体は自然と「歩く」という行為を始めるだろう。

 


 散歩が肉体にとっても精神にとっても良いことは科学的事実なんだ。だから出不精な科学者は全員死後地獄に落ちると「タルムード」にも書いているよ。嘘だよ。

 

 

・「社会人」「大人」なんて、19歳以下と20歳以上を恣意的に分断するくだらない言葉に過ぎない。それよりも歩け!

 

 閑話休題散歩などという世界の本質からすれば至極どうでもいい話は置いといて、今度は私が嫌いな言葉ワースト2「社会人」と「大人」を糾弾していこうと思う。

 いや、いいか。トピックのタイトルでだいたい言いたいことは全部言ってるし。なんかえらい人も「本文は目次の膨大な注釈である」的なこと言ってた気がするし。

 


  既に「社会人」や「大人」になってしまったって? そんな状況でも取り戻せる無垢が一つだけある。散歩だ。スタジオジブリの女の子くらいのテンションで歩けば君の心はあっという間に10歳に若返りするだろう。

 

 

 

・おわりに:人生は「自分は何者にもなれない」と悟ってからが本番。さあ、歩け!

 

 なんであんなことをさせるのか未だにに納得いかないのだが、日本の小学校では先生が児童に「将来の夢」と称して自分がなりたい職業を問うという地獄のようなイベントが1年に7万回くらいある。そんなことやってる暇があるなら、どんな仕事にも価値があることを教えたら?


  分かりきっていることだが、子供の「将来の夢」は十中八九実現しない。

「サッカー選手」「プロ野球選手」なら実現確率はほぼ0に等しく、「数学者」「パティシエ」でもまず不可能だ。

 

 イレギュラーなケースとして、未来に対して非常に現実的な視野を持っている子供が「公務員になりたい」「サラリーマンになりたい」と建設的な夢を抱くことがある。だが残酷なことに、その子が仮に表面上公務員やサラリーマンになれたとしても、本来求めていた「安定」や「所帯」や「楽な労働環境」は手に入らないかもしれない。夢とはそれくらい儚いのだ。

 

 私の場合は夢が「医者」だった。何かの間違いで名門校に入学できたまでは良かったが、呼吸するように勉強する級友たちの姿を見て諦めることにした。

 

 そこは凡俗な自分にとってはあまりに純粋な世界で、全てにおいて「全力を持って追求する姿」しか存在しなかった。勉強、サボり、趣味、部活動、読書、ゲーム……何をするにおいても彼らは完璧に、隅々まで楽しみ尽くしていた。「自由」を標榜していた学校で、制服や厳しい校則はなかったのだが、その暗流には常にエリート的な美しく厳しい空気が漂っていた。

 

 何事にも精力的に打ち込んだ級友たちとは裏腹に、私はあらゆる世界を知ろうとして、結局どの世界も本当に知ることはかった(「あらゆる」を漢字で書くと「凡」という字が出てくるのはなんという皮肉だろうか)。今でも自分の人生設計の甘さを後悔する。最早私は「立派な大人」には逆立ちしたってなれない。

 

 だが立派な大人への道が断たれて初めて得られたものもあった。上手いパスタの作りかた、散歩の楽しさ、難解な本の小狡い読み方……どれも「医者になって全てを手に入れた私」からすれば取るに足りない、つまらないと感じるものばかりだろう。何も持たず、何も出来ず、誰からも必要とされていないはずなのに、やけにそんな自分が心地いいのだ。

 


 暇つぶしにもならない記事をここまで読んでくれた貴方に言いたいことがある。まずは読んでくれてありがとう。そして、こんな名も知れない奴が書いた、ネットの海の漂流物に目を通すくらいだから、おそらく貴方は大なり小なり今人生の苦境に立たされているのだろう。

 

 立派な大人になるかどうかなんてわからない。


 夢が叶うかどうかなんてわからない。


 今逃げたら全てが泡沫に帰すかもしれないし、だからといってがむしゃらに頑張っても何の見返りも得られないかもしれない。


 でも一つだけ言えることがある。貴方は今まで生きてきたじゃないか。この矛盾だらけのクソみたいな世界で、貴方は生き抜く術を独自に編み出して、今日まで生き長らえてきたじゃないか。


 その方法は世間一般的に見れば「逃げている」とか「現実から目を背けている」と映るかもしれない。精神医学的には「防衛機制」と定義されるのだろう。


 だが現に貴方は生きている。それは凄まじいことだ。奇跡的な強さだ。私には貴方の置かれている環境も、つらさも、分かってあげることができない。ただ貴方が今生きていることを祝福することしかできない。

 

 私はありとあらゆる集団的な存在(右翼、左翼、中道、社会、会社、国、学校、ネットのアノニムなコメント達、etc……)を嫌っているし、それと同じくらい個人である貴方を愛している。オルテガの言う「大衆」になることを恐れながらも、生きるには集団に属するしかないと日々葛藤している貴方を愛している。

 

 私には貴方の考えていることが手に取るように分かる。なぜなら文章とはは貴方の鏡だからだ。私の望む望まないに関わらず、貴方はこの文章を貴方の解釈で自由に読み取る。それでいいんだ。

 


 さあ、湿っぽい話はやめて散歩に出かけよう。靴紐は結んだ?トイレは済ませた?お気に入りの音楽はプレイリストに入ってる?

 

 これは散歩上級者の僕からの忠告ーー平日の昼間や深夜に散歩するなら、職質された時のシミュレーションは万全に。

 

 


追伸)こうやって最終的に「感動」で締めちゃう自分に一抹の「島田紳助」を覚えて非常にアンニュイな気分です。気晴らしに散歩しに行きます。