自殺にすら「迷惑」という概念を持ち込む人々の気持ち悪さ

 この国では、ほぼ毎日誰かが何処かで自殺をしています。

 

 彼らが自殺を完遂する理由は、うつ病をはじめとした精神病に依るものであったり、虐待やいじめが原因であったり、はたまた誰かへの復讐であったりと様々です。

 

 そして、自殺者が十人十色であるのと同様に、自殺に対する人々の反応も多種多様。その全てにいちいち非難したり賛同したりするつもりはありませんが、唯一引っかかりを覚える言説があります。

 

 それは自殺——特に電車への飛び込み自殺——を「迷惑だ」と捉える意見です。

 

 

 確かに、電車飛び込み自殺は他の自殺方法と比較しても突出して広範囲の人間に悪影響を与えます。通勤ラッシュや帰宅ラッシュの時間帯であれば尚更です。

 

 その場に居合わせた人たちの時間が奪われるだけでなく、間近で現場を目撃してしまった人はきつい精神的ダメージを負います。

 また、遺族は自殺した家族を悼む暇もないまま、多額の賠償金を背負わされてしまうでしょう。

 

 しかしながら、そういった悪影響の責任を全て、死んでしまった自殺者になすりつけるのは早計ではないでしょうか?

 

 

 自殺する人間は、程度の差はあれど自分の人生に絶望しています。多くの場合、自殺を選んでしまう人は「これ以上、家族や社会に迷惑をかけたくない」という思考に陥っています。自分の存在によって誰かが迷惑を被っている姿をもう見たくない。極限まで醸成された自責の念、罪の意識が、人を自殺に駆り立ててしまうのです。

 

 そんな彼らとは対照的に、起きてしまった自殺に対し「迷惑」などという観念を持ち出す人たちのなんと浅ましく、無責任で自己中心的なことでしょう。

 

 恐らく彼らの傲慢な物言いは、「自分は自らの力だけで生きている」「自分は社会に貢献している側の人間だ」という自負からくるものでしょう。そのような考えはあまりにも視野が狭く、厚顔無恥としか言いようがありません。

 

 人は生きている以上、誰かに迷惑をかけています。いま現在一人暮らしをしていて自分の収入だけで食っている人であっても、子供の頃に親や先生に迷惑をかけ、周りの人間に頼っていたからこそ今の生活があるのです。人は社会という持ちつ持たれつの環境の中にいることで、人としての尊厳を保つことができるのです。

 

 それを「自分は誰にも迷惑はかけていないが、あいつは他人に迷惑をかけている」だとか「働いている人だけが生きる価値がある」と感じてしまう人がいるのは、現代社会の不幸と言わざるを得ません。恐らく、日本の全体主義的な教育によって、そのような偏狭な価値観が培われてしまっているのでしょう。

 

 一人一人が全体の足を引っ張らないよう頑張る"One for all"のみを子供に強制し、みんなが一人の個性を尊重し、短所をカバーしてあげる"All for one"をおざなりにしているうちは、プログラミング教育や早期英語教育なんかやったところで青少年の引きこもりも自殺も解決しないのではないでしょうか。