人生に閉塞感を覚えたら古典を読もう

 「古典」と聞くと、みなさんどんなイメージをお持ちでしょうか。

 

 難解で複雑?

 古臭い考え方の人が書いた古臭い本?

 学校で無理やり勉強させられるよくわからない文章?

 

 そのように思われる方が多いでしょう。

 しかし、実際の古典は、書店で平積みされているビジネス書や自己啓発本なんかよりずっと人生に役立つ、人類の叡智の結晶です。

 なぜ古典が素晴らしいのか?僕なりに考えたその理由を2点挙げさせていただきます。

 

 

1:古典は名著しかない

 いきなり論理が全盛期の池谷直樹並みに飛躍しているような気がしますが、これは紛れも無い事実です。

 現在も読まれている古典というものは、全て時代の変化による淘汰を経てもなお残った作品ばかりです。

 1000年、2000年も前に書かれたにもかかわらず、それらの作品は現在においても輝きを失っていない本物の名著です。

 確かに、現代の本でも名著と呼ぶにふさわしい優れた作品は多々あります。しかしそのうち、一体何冊が100年後でもなお多くの人間に読まれているでしょうか?

 今の名著と、古典の名著はその「名著度」が段違いなのです。

 

 

2:古典は簡単に手に入る

 古いものは価値がある。これは何も書物にかかわらず、美術品やジーンズでも同じです。

 もっとも、それらと古典の間には大きな違いがあります。

 それは「手に入れやすさ」です。

 アンティークの美術品やヴィンテージジーンズなどは、どれもその希少価値ゆえに大変高価です。

 しかし、古典はそこいらの本屋で安価で買うことができます。

 「論語」も「徒然草」も「ツァラトゥストラかく語りき」も、ジュンク堂の文庫コーナーに行けば1000円以下で手に入ります。図書館に行けば、その買い物すら不要です。

 また、「青空文庫」というサイトに行けば、著作権が切れた作品を無料で閲覧することができます。

 

 

 どうです?古典を読みたくなってきませんか?いま自分の人生に行き詰まりを感じている人は、目につくタイトルの本(「5秒で◯◯できる本」「成功できる◯◯の法則」等)に近視眼的に飛びつく前に、偉大な先人が残してくれた遺産を読んでみてはいかがでしょうか。

 

自殺にすら「迷惑」という概念を持ち込む人々の気持ち悪さ

 この国では、ほぼ毎日誰かが何処かで自殺をしています。

 

 彼らが自殺を完遂する理由は、うつ病をはじめとした精神病に依るものであったり、虐待やいじめが原因であったり、はたまた誰かへの復讐であったりと様々です。

 

 そして、自殺者が十人十色であるのと同様に、自殺に対する人々の反応も多種多様。その全てにいちいち非難したり賛同したりするつもりはありませんが、唯一引っかかりを覚える言説があります。

 

 それは自殺——特に電車への飛び込み自殺——を「迷惑だ」と捉える意見です。

 

 

 確かに、電車飛び込み自殺は他の自殺方法と比較しても突出して広範囲の人間に悪影響を与えます。通勤ラッシュや帰宅ラッシュの時間帯であれば尚更です。

 

 その場に居合わせた人たちの時間が奪われるだけでなく、間近で現場を目撃してしまった人はきつい精神的ダメージを負います。

 また、遺族は自殺した家族を悼む暇もないまま、多額の賠償金を背負わされてしまうでしょう。

 

 しかしながら、そういった悪影響の責任を全て、死んでしまった自殺者になすりつけるのは早計ではないでしょうか?

 

 

 自殺する人間は、程度の差はあれど自分の人生に絶望しています。多くの場合、自殺を選んでしまう人は「これ以上、家族や社会に迷惑をかけたくない」という思考に陥っています。自分の存在によって誰かが迷惑を被っている姿をもう見たくない。極限まで醸成された自責の念、罪の意識が、人を自殺に駆り立ててしまうのです。

 

 そんな彼らとは対照的に、起きてしまった自殺に対し「迷惑」などという観念を持ち出す人たちのなんと浅ましく、無責任で自己中心的なことでしょう。

 

 恐らく彼らの傲慢な物言いは、「自分は自らの力だけで生きている」「自分は社会に貢献している側の人間だ」という自負からくるものでしょう。そのような考えはあまりにも視野が狭く、厚顔無恥としか言いようがありません。

 

 人は生きている以上、誰かに迷惑をかけています。いま現在一人暮らしをしていて自分の収入だけで食っている人であっても、子供の頃に親や先生に迷惑をかけ、周りの人間に頼っていたからこそ今の生活があるのです。人は社会という持ちつ持たれつの環境の中にいることで、人としての尊厳を保つことができるのです。

 

 それを「自分は誰にも迷惑はかけていないが、あいつは他人に迷惑をかけている」だとか「働いている人だけが生きる価値がある」と感じてしまう人がいるのは、現代社会の不幸と言わざるを得ません。恐らく、日本の全体主義的な教育によって、そのような偏狭な価値観が培われてしまっているのでしょう。

 

 一人一人が全体の足を引っ張らないよう頑張る"One for all"のみを子供に強制し、みんなが一人の個性を尊重し、短所をカバーしてあげる"All for one"をおざなりにしているうちは、プログラミング教育や早期英語教育なんかやったところで青少年の引きこもりも自殺も解決しないのではないでしょうか。

 

 

金玉の呼称 エロさTier表(最新版)

※ここに貼られているTier表は2017年10月現在のものです!

 

Tier0 ミルクタンク

Tier1 精子工場 タマタマ 

Tier2 キンタマ ザーメンタンク

Tier3 金玉 タマ 赤ちゃん部屋

Tier4 精巣 保育所

Tier5 睾丸 

 

 

 

 上から順に解説してゆく。

Tier0

 Tier0には環境トップの最強呼称「ミルクタンク」のみランクイン。

 圧倒的なエロさで他を寄せ付けないこの呼称は、エロ漫画やCG集に留まらず最近はオナサポ音声にまで活躍の場を広げている。今後も相当なぶっ壊れ呼称が現れない限りミルクタンク一強の状況は変わらないだろう。

 

Tier1

 Tier1には「精子工場」と「タマタマ」が入った。

 以前からT1を定位置としている「精子工場」はともかく、眼を見張るのは「タマタマ」のT3→T1への大出世。これはオナサポ音声において、耳元で囁かれた時の異次元の高火力が評価されたと考えられる。

 

 

Tier2

 中堅にしては強いがトップクラスとまではいかない。プロ野球選手で言えば全盛期桧山、アカギで言えば浦部というこの層に位置するのは「キンタマ」と「ザーメンタンク」の二つ。

「ザーメンタンク」はTier0のミルクタンクとは修飾語が違うだけだが、恐らく使用頻度の少なさが評価を下げたのだろう。

 

Tier3

 Tier3に位置するのは「金玉」「タマ」「赤ちゃん部屋」の三つ。

 同じ「きんたま」という読みでもカタカナか漢字かでランクが変わってしまうところが金玉の呼称界の層の厚さ、厳しさを物語っている。

 また「赤ちゃん部屋」は、エロさこそ十分だがその呼び名が子宮の呼称と被っているため、総合的にこの位置に落ち着いた。

 

Tier4&Tier5

 Tier4には「精巣」「保育所」「玉」、Tier5には「睾丸」が入った。ここに位置している呼称は、余程の愛がないと運用は難しい。とはいえ、以前はTier2だった「精巣」や、赤ちゃん部屋と同じ理由で低評価となった「保育所」などはまだまだ伸び代があり、今後に期待だ。

 

「レッテル貼り」の定義について 第1回

 人間の祖先によって言葉が作られて以来、この世界の事物にはありとあらゆるレッテルが貼られている。

「40代男性が日本を潰す」「ざるそばをすすれない奴は何をやってもダメ」「イギリス人は毎日タイヤを食べている」……

 

 そこで、このシリーズではレッテル貼りについて考えてみようと思うんや。是非とも「こんなブログ読むだけ無駄やんけ!」というレッテルを貼らずにねっとりと読んで欲しい。

 

 そもそも、「レッテル貼り」とはなんやろか。 大辞林によると、「レッテルを貼る」の定義は

「主観に基づいて一方的に評価・格付けしたり,分類したりする」と書かれている。

 

 

 

例えば、

 

「童貞はセックスをしたことがない」

 

 この文章はレッテル貼りと呼べるやろうか?

 これは、レッテル貼りの定義を相当広くしても絶対に引っかからない文章やね。これはカントがいうところの「アプリオリな分析判断」や。主語である「童貞」の中に「セックスをしたことがない」という成分が含まれているんよね。アプリオリって何?みたいなこと聞かんといてな。俺にもよくわかってないから。

 

 では次の文章はどうやろか。

 

「このブログの筆者は童貞だ」

 

 これは、場合によってレッテル貼りかどうかが分かれそうやね。

 厳正な科学的研究によって俺が童貞であることが発覚した場合、この命題は真と言えるやろね。でもこの文章はさっきの「童貞はセックスをしたことがない」と比べると、厳密な論理としては飛躍が存在するよね。たとえ世界中の人間がそれが真である(つまり俺が童貞であること)を知っていたとしても、論理的に「このブログの著者」という概念に「童貞」という成分が含まれていることは明らかではないからね。

 

 カントはこのような述語論理で説明される真理を、「アプリオリな総合判断」と呼んだんや。そしてカントは「学問が新しい知識を生むなら、それは総合判断である」と言及してるんよね。まあ、学問的に正しい判断なのであれば、議論するに値する文言であり、レッテル貼りではないということは言えそうやね。

 

ひとまずここで、レッテル貼りの定義について次のことが言えるね。

 

アプリオリな分析判断は、レッテル貼りではない

アプリオリな総合判断も、レッテル貼りではない

 ・「このブログの筆者は童貞だ」という文言は、俺が童貞であることが自然科学的な事実であると実証されたならば、レッテル貼りではない

 

ただ、これだけの条件では「1+1=2だ」「小学生は皆小学生」とかしか言えなくなるから、もう少し条件を拡張する必要があるね。

 

 

とりあえず今回はここまでや。

 

追記:第2回は無いで。

 

 

この記事はトイレの落書きだと思って読んで欲しい

 はじめに断っておくけど、ここで書かれている文章はツイッターで投稿した一連のつぶやきを繋げたものやから、論理的整合性に欠けてるところがあるかもしれないんよね。それでもいい人は適当に斜め読みして欲しい。

 

 

 

 最近思うんやけど、「大人」といえば「人生の明確な目標を待っていること」が必要条件とされてる風潮ない?

 うん、確かに自分の人生の中で明確なゴールを設定することは悪いことやないと思うで?でも、別に確固たる目標なんかなくても大人にはなれるで?現に俺は性欲だけなら完全に大人やし。

 元々飯食ってセックスして寝る以外に生理的欲求が存在しない生き物に対して、「人生に明確な目標がない内は一人前の人間じゃない」っていうのは少々ハードルが高すぎるんちゃうかな。

 

 ここからは俺の勝手な考えやけど、自分の精神の健康が脅かされてでも果たさなければならない「人生の目標」なんて、最初から無いほうがええよ。「働いて結婚して子供を育てる」とか「自分ができる形で社会に貢献する」とか、そんなものは社会がでっち上げたイデオロギーに過ぎひんからね。

 せやからせめてこれを読んでる人たちには、「まだ自分は人としてスタートラインに立てていない」とか「自分は社会のお荷物だ」みたいなバイアスに思考を支配されて不幸になって欲しくないんよ。

 

 そもそもこの時空に「社会」だとか「国」みたいな、がっちり明文化されたルールで機械的に動く理想空間は存在してないんよね。
 そういった言葉に定義づけられたイメージに、無理やり自分の行動を合わせる必要なんか全く無いで。「自分は周りに迷惑をかけている」っていう先入観も今すぐ鼻セレブに包んで捨てとき。

 

  ホンマのことを言うと、手っ取り早く自殺してしまうのがある意味ベストな判断やけどな。これは人生っていうゲームにおいて裏技扱いされてるから、誰も話したがらんのやけど。

 世界っていうのは常に主観的で、自分の見えている世界しか存在してないのと同じなんよ。自分の死が他人に与える影響なんて、死後意識が消滅した自分にとっては一切関係無いんよね。


 でも死ぬことが怖いなら、どれだけ醜態を晒してでも自分本位で生き残り続けるしかないね。

 

 

 せやから俺も浪人生という身分でありながら大して勉強もせずクーラーの効いた部屋でダラダラブログ書いてるけど、罪悪感なんかこれっぽっちもないで。

 

 いやそれは罪悪感持たなあかんやろ。

 

 

以上

 

 

大阪の夏は暑い

 ことブログの世界においては俺は「天才」と一目置かれているんやけど、最近ちょっと困ったことがあるんよね。

 

 ブログのネタが一切思いつかないんよ。

 

 やれ、一月に100万PVだのという数字を叩き出している人気ブログを見ていると分かるんやけど、ブログのPVを増やすには「沢山記事を書くこと」がまず必須条件なんよね。

 いくら「神に愛されたブロガー」とまで称された俺でも、ブログの世界で重要なのは質より量。少数精鋭で大軍を迎え撃つテルモピュライの戦い的なことはどうやっても無理なんよ。

 

 だから、これからそばつゆ一気飲みブログのPVを10垓(がい)以上にするためには、兎に角記事を書かねばならん。

 そこで、酷暑のせいで大脳新皮質がふやふやになってしまった俺は、清少納言に助言を請うことにしたんや。

 

 清少納言といえば、ご存知「枕草子」の作者。日本の文学史上に名を残す人やね。

 

 「枕草子」の内容は大きく分けて「随筆、評論(随想章段)」「日記(回想章段)」「テーマに沿った単語の羅列(類聚章段)」の3つなんやけど、随想の中に評論文が入り混じっているのは現代のブログに近いものを感じるね。

 

 ところで、清少納言平安時代に文庫本一冊分程度のブログを書いたわけやけど、これってものすごい大変やことやと思うねん。

 だって平安時代の貴族ってめちゃくちゃ暇やで?ネットもテレビも雀荘も無く、やることと言ったら和歌書くくらいやで?もし俺が平安時代の貴族だったら、日記に「うんこめっちゃ出た」とかしか書けないと思う。

 せやから同時期に活躍した紫式部の方がまだ理解できるんよ。小説っていうのはとどのつまりファンタジーやから、いくらでも想像で書ける。むしろ何も無くて暇な時間が多い人の方が沢山想像力を働かせることができるからね。

 

 で、なんで清少納言はそんなクソつまんない生活の中で随筆を書き上げることができたかって考えると、「類聚章段」のおかげのような気がするんよ。

 類聚章段、通称ものづくしは、あるテーマに沿って単語を並べるだけっていう超単純な構造なんよ。それゆえ簡単だから入試問題なんかでは一切取り扱われることはないけど、実際枕草子を読むと結構このものづくしが登場するんよね。

 例えば、23段「たゆまるるもの」

 たゆまるるもの。精進の日の行ひ。遠きいそぎ。寺に久しくこもりたる。

(現代語訳)

怠けがちなもの。

精進の日のお勤め。遠い予定のための準備期間。お寺に長く籠って修行すること。

 

 こんな感じで、清少納言は随想章段や回想章段のネタが思い浮かばない時に、比較的労力の少なくて済むものづくしでお茶を濁したんちゃうかな。

 せやから俺も清少納言の力を借りて、ブログに書くことが無い時はものづくしで誤魔化そうと思う。

 

 

興奮するもの。

テスト当日の警報。山田勝己のそり立つ壁挑戦。cv.植田佳奈。cv.伊藤美紀。cv.田中理恵。うんこめっちゃ出た時。

 

 

以上

 

アビゲイル

「アビゲイルって、何だっけ…」

真夏日の昼下がり、予備校の自習室。クーラーの効いた部屋で英語の長文を読んでいると、ふとそんな疑問が浮かんだ。

アビゲイル。

おそらく自分の人生の中で、17回くらいは見たであろう単語。

今朝あたりにツイッターのトレンドに出ていたその単語を、俺は確かに知っていた。

なのに今、俺はアビゲイルの意味を一切覚えていない。

 

そこで俺は、アビゲイルの意味を類推することにした。

アビゲイルという語感的に、おそらく何らかの人名であることは確かである。

そこで、後ろにさまざまな敬称をつけてみる。

アビゲイルさん

アビゲイルくん

アビゲイルちゃん

アビゲイル殿

アビゲイル様

アビゲイル総理

アビゲイル先輩

アビゲイル部長

アビゲイル市長

…ん?アビゲイル市長?

市長といえばハガー市長が有名だ。ハガー市長が出てくるゲームといえばファイナルファイト……

 

アアアアアア!!!!!!!

 

思い、出した…!!!あのハードゲイみたいな格好で襲いかかってくるモヒカン、あれこそアビゲイル!!!!!

 

 

みなさんも、アビゲイルのことを忘れそうになったら是非この「敬称付け類推」を使って欲しい。そうすれば、いつでもアビゲイルのことを思い出すことができるぞ。

 

以上