「レッテル貼り」の定義について 第1回

 人間の祖先によって言葉が作られて以来、この世界の事物にはありとあらゆるレッテルが貼られている。

「40代男性が日本を潰す」「ざるそばをすすれない奴は何をやってもダメ」「イギリス人は毎日タイヤを食べている」……

 

 そこで、このシリーズではレッテル貼りについて考えてみようと思うんや。是非とも「こんなブログ読むだけ無駄やんけ!」というレッテルを貼らずにねっとりと読んで欲しい。

 

 そもそも、「レッテル貼り」とはなんやろか。 大辞林によると、「レッテルを貼る」の定義は

「主観に基づいて一方的に評価・格付けしたり,分類したりする」と書かれている。

 

 

 

例えば、

 

「童貞はセックスをしたことがない」

 

 この文章はレッテル貼りと呼べるやろうか?

 これは、レッテル貼りの定義を相当広くしても絶対に引っかからない文章やね。これはカントがいうところの「アプリオリな分析判断」や。主語である「童貞」の中に「セックスをしたことがない」という成分が含まれているんよね。アプリオリって何?みたいなこと聞かんといてな。俺にもよくわかってないから。

 

 では次の文章はどうやろか。

 

「このブログの筆者は童貞だ」

 

 これは、場合によってレッテル貼りかどうかが分かれそうやね。

 厳正な科学的研究によって俺が童貞であることが発覚した場合、この命題は真と言えるやろね。でもこの文章はさっきの「童貞はセックスをしたことがない」と比べると、厳密な論理としては飛躍が存在するよね。たとえ世界中の人間がそれが真である(つまり俺が童貞であること)を知っていたとしても、論理的に「このブログの著者」という概念に「童貞」という成分が含まれていることは明らかではないからね。

 

 カントはこのような述語論理で説明される真理を、「アプリオリな総合判断」と呼んだんや。そしてカントは「学問が新しい知識を生むなら、それは総合判断である」と言及してるんよね。まあ、学問的に正しい判断なのであれば、議論するに値する文言であり、レッテル貼りではないということは言えそうやね。

 

ひとまずここで、レッテル貼りの定義について次のことが言えるね。

 

アプリオリな分析判断は、レッテル貼りではない

アプリオリな総合判断も、レッテル貼りではない

 ・「このブログの筆者は童貞だ」という文言は、俺が童貞であることが自然科学的な事実であると実証されたならば、レッテル貼りではない

 

ただ、これだけの条件では「1+1=2だ」「小学生は皆小学生」とかしか言えなくなるから、もう少し条件を拡張する必要があるね。

 

 

とりあえず今回はここまでや。

 

追記:第2回は無いで。

 

 

この記事はトイレの落書きだと思って読んで欲しい

 はじめに断っておくけど、ここで書かれている文章はツイッターで投稿した一連のつぶやきを繋げたものやから、論理的整合性に欠けてるところがあるかもしれないんよね。それでもいい人は適当に斜め読みして欲しい。

 

 

 

 最近思うんやけど、「大人」といえば「人生の明確な目標を待っていること」が必要条件とされてる風潮ない?

 うん、確かに自分の人生の中で明確なゴールを設定することは悪いことやないと思うで?でも、別に確固たる目標なんかなくても大人にはなれるで?現に俺は性欲だけなら完全に大人やし。

 元々飯食ってセックスして寝る以外に生理的欲求が存在しない生き物に対して、「人生に明確な目標がない内は一人前の人間じゃない」っていうのは少々ハードルが高すぎるんちゃうかな。

 

 ここからは俺の勝手な考えやけど、自分の精神の健康が脅かされてでも果たさなければならない「人生の目標」なんて、最初から無いほうがええよ。「働いて結婚して子供を育てる」とか「自分ができる形で社会に貢献する」とか、そんなものは社会がでっち上げたイデオロギーに過ぎひんからね。

 せやからせめてこれを読んでる人たちには、「まだ自分は人としてスタートラインに立てていない」とか「自分は社会のお荷物だ」みたいなバイアスに思考を支配されて不幸になって欲しくないんよ。

 

 そもそもこの時空に「社会」だとか「国」みたいな、がっちり明文化されたルールで機械的に動く理想空間は存在してないんよね。
 そういった言葉に定義づけられたイメージに、無理やり自分の行動を合わせる必要なんか全く無いで。「自分は周りに迷惑をかけている」っていう先入観も今すぐ鼻セレブに包んで捨てとき。

 

  ホンマのことを言うと、手っ取り早く自殺してしまうのがある意味ベストな判断やけどな。これは人生っていうゲームにおいて裏技扱いされてるから、誰も話したがらんのやけど。

 世界っていうのは常に主観的で、自分の見えている世界しか存在してないのと同じなんよ。自分の死が他人に与える影響なんて、死後意識が消滅した自分にとっては一切関係無いんよね。


 でも死ぬことが怖いなら、どれだけ醜態を晒してでも自分本位で生き残り続けるしかないね。

 

 

 せやから俺も浪人生という身分でありながら大して勉強もせずクーラーの効いた部屋でダラダラブログ書いてるけど、罪悪感なんかこれっぽっちもないで。

 

 いやそれは罪悪感持たなあかんやろ。

 

 

以上

 

 

大阪の夏は暑い

 ことブログの世界においては俺は「天才」と一目置かれているんやけど、最近ちょっと困ったことがあるんよね。

 

 ブログのネタが一切思いつかないんよ。

 

 やれ、一月に100万PVだのという数字を叩き出している人気ブログを見ていると分かるんやけど、ブログのPVを増やすには「沢山記事を書くこと」がまず必須条件なんよね。

 いくら「神に愛されたブロガー」とまで称された俺でも、ブログの世界で重要なのは質より量。少数精鋭で大軍を迎え撃つテルモピュライの戦い的なことはどうやっても無理なんよ。

 

 だから、これからそばつゆ一気飲みブログのPVを10垓(がい)以上にするためには、兎に角記事を書かねばならん。

 そこで、酷暑のせいで大脳新皮質がふやふやになってしまった俺は、清少納言に助言を請うことにしたんや。

 

 清少納言といえば、ご存知「枕草子」の作者。日本の文学史上に名を残す人やね。

 

 「枕草子」の内容は大きく分けて「随筆、評論(随想章段)」「日記(回想章段)」「テーマに沿った単語の羅列(類聚章段)」の3つなんやけど、随想の中に評論文が入り混じっているのは現代のブログに近いものを感じるね。

 

 ところで、清少納言平安時代に文庫本一冊分程度のブログを書いたわけやけど、これってものすごい大変やことやと思うねん。

 だって平安時代の貴族ってめちゃくちゃ暇やで?ネットもテレビも雀荘も無く、やることと言ったら和歌書くくらいやで?もし俺が平安時代の貴族だったら、日記に「うんこめっちゃ出た」とかしか書けないと思う。

 せやから同時期に活躍した紫式部の方がまだ理解できるんよ。小説っていうのはとどのつまりファンタジーやから、いくらでも想像で書ける。むしろ何も無くて暇な時間が多い人の方が沢山想像力を働かせることができるからね。

 

 で、なんで清少納言はそんなクソつまんない生活の中で随筆を書き上げることができたかって考えると、「類聚章段」のおかげのような気がするんよ。

 類聚章段、通称ものづくしは、あるテーマに沿って単語を並べるだけっていう超単純な構造なんよ。それゆえ簡単だから入試問題なんかでは一切取り扱われることはないけど、実際枕草子を読むと結構このものづくしが登場するんよね。

 例えば、23段「たゆまるるもの」

 たゆまるるもの。精進の日の行ひ。遠きいそぎ。寺に久しくこもりたる。

(現代語訳)

怠けがちなもの。

精進の日のお勤め。遠い予定のための準備期間。お寺に長く籠って修行すること。

 

 こんな感じで、清少納言は随想章段や回想章段のネタが思い浮かばない時に、比較的労力の少なくて済むものづくしでお茶を濁したんちゃうかな。

 せやから俺も清少納言の力を借りて、ブログに書くことが無い時はものづくしで誤魔化そうと思う。

 

 

興奮するもの。

テスト当日の警報。山田勝己のそり立つ壁挑戦。cv.植田佳奈。cv.伊藤美紀。cv.田中理恵。うんこめっちゃ出た時。

 

 

以上

 

アビゲイル

「アビゲイルって、何だっけ…」

真夏日の昼下がり、予備校の自習室。クーラーの効いた部屋で英語の長文を読んでいると、ふとそんな疑問が浮かんだ。

アビゲイル。

おそらく自分の人生の中で、17回くらいは見たであろう単語。

今朝あたりにツイッターのトレンドに出ていたその単語を、俺は確かに知っていた。

なのに今、俺はアビゲイルの意味を一切覚えていない。

 

そこで俺は、アビゲイルの意味を類推することにした。

アビゲイルという語感的に、おそらく何らかの人名であることは確かである。

そこで、後ろにさまざまな敬称をつけてみる。

アビゲイルさん

アビゲイルくん

アビゲイルちゃん

アビゲイル殿

アビゲイル様

アビゲイル総理

アビゲイル先輩

アビゲイル部長

アビゲイル市長

…ん?アビゲイル市長?

市長といえばハガー市長が有名だ。ハガー市長が出てくるゲームといえばファイナルファイト……

 

アアアアアア!!!!!!!

 

思い、出した…!!!あのハードゲイみたいな格好で襲いかかってくるモヒカン、あれこそアビゲイル!!!!!

 

 

みなさんも、アビゲイルのことを忘れそうになったら是非この「敬称付け類推」を使って欲しい。そうすれば、いつでもアビゲイルのことを思い出すことができるぞ。

 

以上

 

 

 

自己憐憫は悪ではない

 近頃、あたかも「自己憐憫は悪である」かのような論調が流布している。

 Twitterで「自己憐憫」と検索すると、ほぼ99%がネガティブなものとしてこの言葉が扱われており、どうやら自己憐憫とは、「抱いてはいけない感情」である、と彼らは考えてるようだ。

 しかし僕が思うに、自己憐憫は別に卑下する必要もなければ、唾棄すべき負の感情でもない。

 

 そもそもなぜ自己憐憫が起こるのか?理由は多々あると思うが、最も大きな要因は「自分の目標(理想の自分)と置かれている現状(現在の自分)とのギャップ」だろう。

 現在の自分に強い自己憐憫を感じる人間というのは、言い換えれば自分に対して強い期待を抱いている。自分への期待値が高ければ高いほど、将来の夢や展望を高望みする。これは決して悪いことではなく、そういう人間は実際その高みにたどり着く可能性を秘めている。

 自分に対して殆ど期待をしていない人間というのは、対照的に自己憐憫を感じることはない。 

 マイナスの感情に苛まれることを恐れ、自分への期待値が低いと、たとえ大きく成功するチャンスに巡り合えても、自分で限界を設定してしまう。マイナスを避けることは、プラスを素通りしてしまうことと表裏一体なのだ。

 

自己憐憫が強い人間と弱い人間というのは、どちらが善でどちらが悪という問題では無い。あくまでもそれぞれタイプが違う人間だというだけだ。そこに優劣をつけようとするのは、大振りでホームランが狙えるが打率が低いバッターと、バットを短く持って常に高打率を維持するバッターを比べるようなものだ。

 

 本当にダメなのは、自己憐憫自体ではなく、自己憐憫が習慣化し、常にマイナスの感情ばかり表出してしまうことだ。この場合、必要なのは論理による説得や励ましではなく適切なカウンセリングである。

 

個性と心的問題を同一視してはならない。

「三角食べ」はウソ!本当に適切な食べ方とは

まあ、ご飯の食べ方といってもいろいろある。

中でも、その食べ方や注文内容によって、最もその人の個性が分かれるチェーン店といえば、ご存知やよい軒に他ならない。

 

現在、俺はやよい軒の食べ方によって9パターンの自己分析ができる「ヤヨイグラム診断テスト」というものを作っている。完成にはあと8年ほどかかるが、これができた暁には俺は億万長者となり、二度とやよい軒に足を運ばない人生を送れるだろう。

そこで、まだ完成はしていないものの、ヤヨイグラム診断の一部をお見せしようと思う。

 

まずは、やよい軒に行く時間帯だ。

これによって、「昼やよい」か「夜やよい」の二パターンに分かれる。

昼やよいは、主にパチンコの合間に来る客が多い。対して夜やよいは、パチンコ帰りの客が大半を占める。

ここで気をつけたいのは、同じパチンカスでも、昼やよい型パチンカスと夜やよい型パチンカスでは全く指し示す意味が違うということだ。

本来、パチンコとは還元率30%を切る「負けるべくして負けるギャンブル」である。昼ならまだしも、夜にやよい軒で晩飯が食えるほどの金を残しているパチンカスなど本来いないのだ。

つまり、夜やよい型のパチンカスは、パチンカスの中でも奇跡的にパチンコで勝つことができた者。圧倒的勝ち組のパチンカスである可能性が高いのである。しかしながら、パチンカスとは得てして負け組である。勝ち組でありながら負け組になる運命を背負うことになるアンビバレンスな行為、それが夜やよいなのである。

 

次に注目すべきが、頼むメニューである。

「4種のチーズハンバーグミックス定食」や「特盛厚切りカルビ定食」を頼む客は、間違いなくブルジョワジーだ。彼らはその財力を生かし、ご飯のおかわりを一切せず、定食について来るポテトを残すというカルロスゴーンのような食べ方をする。

おそらく彼らは圧倒的支配者層であり、イルミナティメンバーであり、新世界秩序を作ろうとしているグローバリストに違いない。俺が昨日覚えた英単語を何一つ覚えていないのも、おそらく奴らの電磁波攻撃を受けているからだろう。

対照的に、「鯖の塩焼き定食」やサイドメニューしか頼まない客は、全財産が700円しかないのにやよい軒に来た狂人である可能性が高い。関わり合わないことをおすすめする。

 

本当はまだまだ項目があるのだが、これ以上書いているとその間にやよい軒の味噌汁が冷めてしまうので、ここまでにしておこう。

 

 

僕は元気です。

 

 

 

 

 

 

全ての物語の読後感は「安心感とカタルシス理論」で説明できる

皆様、ゴールデンウィークはいかがだったでしょうか。

 

僕は浪人生故に日本での基本的人権が認められていません。なので、ゴールデンウィークとか関係なく2週間以上休みがありませんでした。

 

しかし、ゴールデンウィークに休みがないことによって、連休明けのあの絶望感に満ちた心境で月曜日を迎えることもなく、今日も弥勒菩薩のような表情で授業を受けることが出来ています。やったね。

 

 

読後感を決定する二大要素

「安心感とカタルシス理論」という言葉をご存知でしょうか。

 

今僕が考えた言葉なので、おそらく知らないと思います。

 

端的に言ってしまえば、アニメ、漫画、小説、映画その他の「物語(ストーリーライン)」を分類するための基準です。

 

といっても、僕なんかが世の中全ての物語を分類しようというのはあまりにも差し出がましいですよね。

 

この基準は、あくまでも物語の要素のうちの一つ「読後感」に的を絞って分類するためのものです。

 

それにしても、僕たちはなぜ物語が好きなのでしょうか。

 

おそらく、それは「気持ちいいから」です。

 

僕たちは、殺生院キアラほどではありませんが、それなりに気持ちいいことが好きです。

 

長編であれ短編であれ、必ずそこには「読後感」といった言葉で表される気持ちが芽生えるはずです。

 

そして、僕たちはわざわざ自分が不快になるために物語を読みません。意識的あるいは無意識的に、自分が読みたい小説を読んだり、自分が観たい映画を観たりします。

 

物語が人間にもたらす快感は、大きく二つに分けられます。

 

「安心感」と「カタルシス」です。

 

僕が私淑するブロガー、ハルマキさんの言葉を借りれば、「安心感」=「ダウナー系脳内麻薬」、「カタルシス」=「アッパー系脳内麻薬」ということになります。

 

ゴルゴ13は日常系の極致

まず、「安心感」の方から説明します。

 

安心感指数が高い物語の例として、「ドラえもん」「日常系アニメ」「ゴルゴ13」「むこうぶち」「釣りバカ日誌」「24シリーズ」などが挙げられます。

 

一見、何の関連性もないように見えますが、これらの作品にはある共通点があります。

 

それは、「同じようなストーリーラインを繰り返す」ということです。

 

ドラえもんは必ずのび太くんをひみつ道具で助け、そのチャンスをのび太は毎回ふいにします。

 

ゴルゴ13が死ぬということは絶対にありません。彼は必ず自分のルール通りに行動し、正確に任務を遂行します。

 

ゴルゴ13は特に安心感の要素が強く、「究極の日常系」と言えるでしょう。

 

安心感の指数が高い物語は、似たようなストーリーラインを、使う道具や目標を変えることによって新鮮味をもたせながらなぞっていくという傾向があります。つまり、様式美を崩さないということです。

 

このような物語は、安心して観ることができ、かつ、ゲームのように飽きることなくいくらでも楽しむことができます。

 

 マリみては王道少年マンガ的ストーリー

カタルシス」というのは、まさにその逆。どんでん返しに次ぐどんでん返し、観る側は常にハラハラドキドキ。終わった後はぐったりと疲れ、日常生活では感じられない満足感と多幸感に包まれます。

 

カタルシス指数の高い物語の例としては、「マブラブオルタネイティヴ」「魔法少女まどか☆マギカ」「コードギアス」「マリア様がみてる」「ベルセルク(黄金時代)」「半沢直樹」「シリーズものでない映画全般」等です。小説やノベルゲームでよくある「伏線回収」もカタルシス指数の高い展開です。

 

これらの物語は、主人公が幾度となく危機に陥ったり、主要な登場人物がバンバン死んだりします。

 

マリア様がみてる」も、女子校という小さな世界の中の出来事ですが、等身大の女子高生の視点から見れば、レイニーブルー黄薔薇革命など明らかに危機的といえる状況が何度も発生します。少女小説でありながら男性からの支持も強いのは、随所に少年漫画のような「友情・努力・勝利」のエッセンスが散りばめられているからかもしれません。

 

カタルシス指数の高い物語は、危機を脱した時のほっとした感じを思う存分味わうことができますが、かなりのカロリーを消費するのでそう何度も読み返したりできるものではありません。映画は基本的に一話完結的で尺も長くて3時間なので、カタルシス指数の高い物語が多いです。

 

残念ながら、安心感とカタルシスを両立することは不可能です。天秤の両端に、安心感とカタルシスを同程度用意することは可能ですが、それは安心感指数の高い物語とカタルシス指数の高い物語をただ折衷しただけのものになります。

 

二つのどちらかが良いとかいうのではなく、それぞれの長所短所を理解することで、これからの皆様のオタクライフの一助となれば幸いです。