そばつゆ一気飲みブログ

ほとんど何も知らないです。

ある過激派ナチュラリストの手記

カクヨムに掲載しているものと同じ内容です

 

 

 木村峰夫教授から、メールと添付ファイルが送られてきた。先輩が「5月になると木村教授から医学部1年生全員にメールが届く」と言っていたが、まさか本当に来るなんて。

 電脳化がそれなりに進んだ現在、電子メールを送るのは年末年始くらいだ。年の初めに親戚や知り合いに挨拶に回るという風習は、古くは奈良時代からあったらしい。やがて遠方に住む人には直接訪ねる代わりに文書を送るようになり、明治維新で郵便制度が確立した後は身分を問わず誰もが年賀状を出すようになった。その文化は、今でもかろうじて年賀状メールとして残っている。

 木村峰夫教授は、日本遺伝子協会の理事も務める遺伝子研究界の重鎮だ。そんな人物が、毎年大学一年生達にメールという格式高い手段で連絡するというのは何とも奇妙な話だった。

 私は年季の入ったタブレットにメールの内容をコピーした。一応自分なりに、礼節を重んじたやり方で読みたいと思ったからだ。

 液晶画面にメール内容が表示された。短い文章に、画像ファイルが何枚か添付されていた。

 


 大学一年生の諸君へ。

 以下の文章は、約40年前に自然主義者の科学ライターによって執筆された手記だ。直筆で書いてあるため、そのまま画像ファイルにして送ろうと思う。

 2084年度生として本大学の医学部に入学した諸君は、この文章を読んで何を感じ何を考えるのだろうか。今や「生きた化石」となった平成生まれの人間として、私は純粋に諸君の思考回路に興味がある。これを読んで少しでも何か思ったことがあれば、是非私に教えて欲しい。

 


 私は添付ファイルを開いた。達筆な字の縦書き原稿が画面に表示された。タブレットを横向きにして、右端の列から読む。

 


「私はゲノム編集を選択しない」

 科学哲学誌「ライプニッツ」のコラム用に書いた原稿。内容が不適切との理由で送り返されてしまった。自分で活字に直すのは面倒なので、このまま原稿の画像を貼ってブログに掲載する。

 


 初めに、蚊に刺されない遺伝子が流行った。蚊は痒さをもたらすだけでなく、マラリアデング熱といった感染症の媒介となる。それに、「蚊に刺されないようにした」程度だと大した倫理的抵抗感も無い。

 クライアントからすれば、さながらプチ整形のように聞こえるのだろう。だが実際にドクターたちが施す処置は、頭を良くしたり背を高くする時とさほど変わらない。部位特異的ヌクレアーゼを利用して、クライアントの受精卵をゲノム編集するだけだ。

 


 ヒト胚に対するゲノム編集は長らくタブーとされてきたが、日本でもアメリカや中国に遅れること5年、ついにゲノム編集法により生まれてくる子供の遺伝子を組み替えることが解禁された。

 2025年、日本一号となるゲノムクリニックが東京に開設された。それ以降、クリニックの数は年々右肩上がりに増加していった。今や小さな町でも最低1軒、大都市では美容室くらいの頻度で見かけるようになった。

 


 マスコミは当初、デザイナーズベイビーを作るクリニックや親たちを批判的に報道した。ナチスの優生思想や日本の旧優生保護法を引き合いに出し、子供への遺伝子学的介入は人間の尊厳を踏みにじる行為だと糾弾した。

 芸能人や資産家たちがこぞってゲノム編集に手を出したあたりから、報道は二極化した。それまでと同じ温度で報じるメディアと、生まれてくる子供に良い人生を歩んで欲しいと努力するのは正当な権利だと主張するメディアに分かれた。

 結果は周知の通りで、後者が勢いを増していった。初めはコメンテーターに意見を代弁させ、次第に報道の仕方そのものを肯定派寄りにすることで「うちは最初からゲノム編集に賛成だった」という空気を演出した。

 国会議員までもが子供をゲノム編集で産んだことを公言するようになると、デザイナーズベイビーの倫理的危険性に触れるテレビ局や新聞社は皆無となった。

 ゲノム編集法の施行から5年も経たないうちに、子供を「創る」ことは国民の生活の一部となった。

 この「創る」という表現が便利なもので、ゲノムクリニックのホームページやポスターには「これからは作るのではなく創る時代」という類のキャッチコピーが大量に書かれた。

 優れたゲノム編集ドクターはクリエイターやデザイナーに喩えられた。「ゲノムデザイナー」「人生クリエイター」うーん、実に心地よい響きだ。

 2045年現在では、受精卵のゲノム編集行為に異議を唱える人は過激的なヴィーガニストやキリスト教福音派と同様に扱われる。つまり、誰も相手にしないということだ。今やネットの片隅でしか、反ゲノム編集派は居場所を見出せなくなった。「子供に良い人生を歩んでほしいと努力する権利」は「子供が良い人生を歩めるよう努力する義務」に変わった。

 


 少子化核家族化がますます進む先進各国では、どうせ産むなら良いものを産みたいという考えが蔓延している。それはちょうど、せっかく高級なレストランに来たんだから、一番良いメニューを頼みたいと思う心理に似ている。

 勿論、優生思想が危険だという観念は据え置きだ。社会的、道徳的には優生思想を嫌悪しつつも、自分の子供にはゲノム編集をしてハリウッドスターやアイドルに似た風貌にする。「多様性が大事」だとテレビでも学校でも毎日のように言ってるが、子供を作るなら将来の身長は「男180cm、女163cm」に設定するのが常識になっている。私は、こういった振る舞いがダブルスタンダードと呼ばれない理由が分からない。遺伝子を弄ったら、私にも理解できるようになるのだろうか。

 


「純粋に子供の幸福を願う」親たちの要求はエスカレートしていき、その矛先はついに幸福そのものに向けられた。

 幸福を数値化し、ゲノム編集によってそれを恒常的に上げるというのだ。具体的には、ホルモンの分泌バランスや閾値を変え、精神的に健全で安定した人間にするらしい。選択欄にチェックを入れるまでもなく、定型発達で育つことや丈夫な身体で生まれることも盛り込まれている。

 なるほど確かに幸福な人生を送れるかもしれない。だが、もし仮にこの技術が200年前から存在していたら、この世にヘミングウェイ太宰治は生まれていなかっただろう。当然私のような捻くれ者のナチュラリストなど、受精卵の段階で「不良な遺伝子」の烙印を押されて廃棄されていたに違いない。「アルプスの少女ハイジ」の書き出しは「アルムおんじになるはずの受精卵は人間嫌いの遺伝子を持っていたので、細胞分裂することが許されませんでした」となっていただろう。

 


 色々と嫌みたらしく書いてきたが、ゲノム編集という技術によって、親が思う「より良い人生」を子供に歩ませることは容易になっただろう。そこに疑う余地はない。

 だが、奴らが大きく勘違いしている点がある。

 DNAは絶対ではない。DNAは決して、生まれてから死ぬまでの出来事が書かれた人生年表ではないのだ。

 男性型脱毛症(AGA)、つまりハゲを例にとってみるとわかりやすい。男性ホルモンの一種であるテストステロンは、II型5-αリアクターゼという酵素によってジヒドロテストロン(DHT)に変化する。このDHTこそ、AGAの原因となる。

 ハゲにくい遺伝子とは、換言するとII型5-αリアクターゼが発生しにくい遺伝子ということになる。しかしこの遺伝子をゲノム編集によって導入したところで、その人間が将来ハゲない保証はない。AGAの発症には遺伝子だけではなく生活習慣やストレス環境なども大きく関係しているからだ。

 遺伝子操作によってできるのは、せいぜい一部の要素について「確率的に良くする」程度のものに過ぎない。全世界の人間が遺伝子操作によって先天的に均一な生を得たところで、その中で後天的属性による新たな多様性が生まれるだけのことだ。また、もしそういう世界が実現したとすれば、その「優れた遺伝子」こそがスタートラインとなり、新たな基準で優劣を決める競争社会が訪れるだろう。

 結局、ゲノム編集なんてやろうがやるまいが人間は同族同士で争い続ける。依然として地球上最も愚かな生き物のままだ。

 


 今年は2045年。ゲノム編集によって生まれた日本人の第1世代が、成人を迎える頃だ。いよいよ親たちが20年前に書いた未来図の「答え合わせ」が始まる。せいぜいその正否に一喜一憂するが良い。

 


 言っておくが、私は西洋医学を否定しているわけでない。むしろ、全幅の信頼を置いている。妻の出産は帝王切開だった。西洋医学が発達していなければ、私は尊い二人の命を失っていた。

 私が危惧しているのは、ケアやキュアという次元を超えて人間の倫理や多様性にまで科学のメスを入れようとすることだ。そういった試みは、歴史を振り返ると何度もあった。しかしいずれの場合においても、立脚点たる科学そのものに裏切られるという形で計画は頓挫した。

 科学とは、完全で閉じた輪ではない。常に膨張し、開拓し続ける宇宙そのものだ。当然、昨日まで信じられていた理論が否定されるということも頻繁に起こる。だからこそ、科学が踏み入れてはならない領域を作っておく必要がある。人として大事なものを科学に振り回され、人生を台無しにしてしまう前に。

 


 最後に、私の家族の話をしよう。

 山間部に住むナチュラリストの生活など、今では滅多に知ることが出来ないだろう。別に狩猟採集生活を送っているわけではない。畑を耕したり羊を飼ったりして出来る範囲で自給自足の生活を送っている。手に入らない物品はネットで注文し、自動運転のトラックに運んできてもらっている。自給自足といっても、大昔にここに住んでいた人々からすればほんのおままごと程度だろう。

 私の娘は、来週8歳の誕生日を迎える。デザイナーズベイビーではない。生まれた時から目に障害を抱えていて、大雑把な明るさしか判別できない。また、彼女には軽度の発達障害が見られ、いつも落ち着かない様子で部屋中を散らかしている。

 私が外で娘の障害を告白すると、大抵「あなたは親として失格だ」という謗りを受けてしまう。なぜゲノム編集して娘の明るい未来を創ってやらなかったのか、と。「減らせる不幸は出来るだけ減らし、創れる幸福は出来るだけ創る」というのが親の務めらしい。

 ゲノム編集された人間ほど優秀ではないかもしれないが、娘の成長はいつも私を驚かせる。

 1年ほど前、私は娘を車椅子に乗せて散歩していた。すると娘が突然、「パパ、あそこに蝶々が居る」と言った。娘の指差す方を見やると、確かにアゲハ蝶が数匹、道端に咲く花の上で舞っていた。私は驚いて、なぜ蝶がいると分かったのかと聞いた。娘はこう言った。

「蝶々の会話する声が聞こえたの」

 家に帰った私は、妻にこの不思議な出来事を報告した。妻が「娘には音楽の才能があるかもしれないわね」と言うので、早速アップライトピアノを購入した。多少値が張っても、電子ピアノよりこちらの方がいいと判断した。妻は呆れていたが、実際に調律された音を聴くと「絶対にこっちの方が良いわね」と頷いていた。

 ピアノの心得がある妻が、娘に簡単な音楽のイロハとピアノの弾き方を教えた。娘はピアノに熱中し、学校から帰ると晩御飯までずっと弾くようになった。今ではミスタッチもほとんど無くなり、簡単な作曲までやるようになっている。

 娘との神秘的かつ幸福な体験談を言っても、「それで目が見えたらもっと楽器を上手く演奏できたのでしょうね」などとほざく連中もいる。私は、そんな輩にはこう言い返すようにしている。

「私の娘の目には、鍵盤の位置などどうでもよくなる程美しい世界が見えているのだ」

 このように私が考えてしまうのは、自分の娘であるが故の依怙贔屓と色眼鏡によるのだろう。実際のところ、目が見えるに越したことはないし、定型発達であるに越したことはない。

 それでも私は、欠点があることが悪いことだとは決して思わない。ゲノム編集をして欠点を無くさなければ、人として認められないような競争社会こそが全ての元凶だ。

 


 さて、そろそろ筆を置いて夕飯の準備をしなければ。自然主義者の食事は色々と大変なのだ。

 ナチュラリストの妄言に最後まで付き合ってくれたことに感謝する。これを読んで少しでも何か思ったことがあれば、是非私に教えて欲しい。

 


 2045年10月26日 ライター 木村峰夫

「犯人の自宅から、謎の球体が発見されました」

カクヨムに載せているのと同じ内容です。

 

「一昨日に新瓦市の市立図書館で発生した無差別殺人事件について、続報がありました」液晶に映る女性アナウンサーが、落ち着いた声で原稿を読み上げる。職場の食堂に備え付けられた32インチのテレビを、4人の社員が食い入るように見つめていた。

 隅に置かれた4人用のテーブルをひとりで占有している田中太郎も、食べかけのカツカレーの皿にスプーンを置いて画面を注視する。

「警察が丸山麗亜容疑者の自宅を家宅捜索した結果、容疑者の自室からゲーム機やアニメのDVD等が発見されたとのことです」

「またこれだよ」

 グループのリーダ的存在の男、吉野義男がため息混じりに言った。普段から髪がボサボサでまともな大人には見えないが、最近は無精髭も生やし始めていよいよ浮浪者の様相を呈している。

 田中や吉野達が勤務する株式会社ガリレオソフトは、新瓦市に拠点を置くサードパーティのコンピューターソフト製作会社だ。吉野らのグループは、現在新しいスマートフォン向けアプリの開発に携わっている。吉野は企画部のディレクターで、テーブルを囲む他の3人はプログラマーシナリオライターといった開発担当の役職だ。田中太郎もゲームプランナーとしてチームに参加している。

「ゲームやアニメが原因だってはっきり言うわけでもなく、ただ事実として伝えることで仄めかしてますもんね。これならクレームを受けても『関連性があると明言しているわけではない』とはぐらかせる。ある意味宮崎勉事件の頃よりいやらしいですよ」

 グループの中で最年少の女、町田真知子が言った。町田の発言に、他の3人も頷く。美大上がりのグラフィックデザイナーである町田は、髪の毛が緑色であること以外は至極まともな人間だ。

 吉野たちが呆れるのも無理はない話だ。2ヶ月ほど前にも似たような報道があった。少女を誘拐した大学生の男が捕まった際、マスメディアは犯人の家庭環境や人間関係よりも長い時間を割いて彼がアニメオタクであることや暴力性の高いゲームをプレイしていたことを説明した。

 アニメなんて、今時誰でも観るだろう。一体それが犯罪と何の関係があると言うのだ。太郎の母親だって、先日ヅタヤで借りた《コートキアス》が面白かったと太郎に5000文字の感想メールを送ってきた。アメリカを模した帝国の属国となった日本の軍人が、ロボットを操って日本の主権を取り戻すという物語である。だからといって母親から「アメリカと戦争して日本を取り戻したい」とか「ロボットを操縦して人間をしばき回りたい」なんて相談を受けたことはない。

 フィクションはあくまでフィクションだ。虚構と現実の区別がつかない奴の尻拭いまで、フィクションやそれを愛する人たちに押し付けるというのは理不尽だろう。そういう人間が生まれてしまうのは、どちらかといえばアニメやゲームよりも教育に問題があるんじゃないだろうか。

 太郎はニュースに興味を失い、再び残りのカレーライスを食べ始めた。カツを器用にスプーンに乗せ、口に運ぶ。中央のテーブルを囲む4人も、食事中に息苦しい話をしたくないのか、事件とは関係ない雑談を始めた。

 


「……新たな情報が入りました。容疑者の部屋の金庫から、謎の球体が発見されました」

 テレビのスピーカーから流れる言葉に、スプーンを動かす手が止まる。4人の社員が一斉にテレビの方を向いた。

「球体の詳細は未だ不明で、目下警察が事件との関連性を捜査中です。現在判明している情報では、サイズは直径20センチ程度で色はグレー。重さは約500グラムとのことです。警察はこの物体について、情報提供を求めています」

 グループの4人全員が、いやおそらく画面の向こうのアナウンサーですら、読み上げている内容の意味が飲み込めなかっただろう。

 だが、田中太郎だけは違った。太郎はただ一人、この球体の正体を知っている可能性があった。

 太郎は動揺を気づかれまいとカレーライスをかきこむ。ご飯粒が口元についていても気にせず、黙々とカレーの海と米の森を攻略する。綺麗にカレーを平らげた太郎は、唖然としてテレビを眺めている4人を尻目に、一足先に社員食堂を出だ。

 明るい廊下を早足で歩く。カーキ色の長尺シートを、革靴で踏みしめる。歩くたびにムギュッと靴が鳴る。壁の向こうの社員食堂からは、アナウンサーの無機質な声だけが微かに聞こえていた。

 


 株式会社ガリレオソフトは、新瓦市赤原区の赤原第一ビルに本社を置いている。赤原第一ビルはSRC造の10階建てビルで、3階から6階までがガリレオソフトのオフィスだ。社員食堂や受付は3階にある。

 田中太郎は蛍光灯に照らされた階段を駆け足で上る。ここの照明をLEDに買い換える噂が毎年流れている気がするが、いったいいつ変わるのだろう。もしかして自分が気づいていないだけで、毎年4月1日に導入して4月2日くらいに壊れているのだろうか。

 そんなことを考えているうちに、自分や吉野たちが働く4階オフィスに着いた。

 安物のチェアに座った太郎は、スマホをポケットから取り出してブラウザの検索ボックスに文字を打ち込む。

「新瓦市 殺人事件 詳細」

 昼休みが終わるまでまだ15分ほどある。太郎はその間、例の事件とその犯人について今一度調べることにした。

 梅雨空の白い光がウッドブラインドの隙間から差しこみ、社員たちのデスクを仄かに照らす。整理整頓された田中太郎のデスクに置かれた小さな電子時計は、6月17日の12時46分を指し示していた。

 


 小倉塚図書館無差別殺人事件は、一昨日の6月15日月曜日、新瓦市小倉塚区の小倉塚図書館で発生した。

 新瓦と言っても新瓦市は東西に長く、赤原第一ビルのある赤原区と事件の発生した小倉塚区の直線距離は15キロもあるため、近所と呼ぶには少し遠い。田中太郎の実家は小倉塚区、厳密には小倉塚区に吸収合併される前は玉ノ森区だった地域にある。ちなみに現在太郎は、赤原区にある職場から徒歩10分のマンションに一人暮らししている。

 犯人の男は、午後3時手前にリュックを背負った状態で図書館に入った。男はしばらく、東端にある本棚の前で本を立ち読みしていた。司書がその姿を確認している。

 図書館に小倉塚小学校から下校した児童が集まり始めると、男はリュックから刃渡り20センチ程の牛刀包丁を取り出し、その場にいた人間を次から次へ切りつけ始めたそうだ。司書はパニックを起こして一目散に逃げ出した。

 この後、容疑者確保までの約3分間に起きた出来事はまだ詳しく分かっていない。犯人が図書館内を狂ったように暴れ、阿鼻叫喚という他ない状況だったということだけは伺える。入り口近くにいた市民はすぐさま脱出したが、彼らが通報するまでもなく、その様子を見たパトロール中の警官が急いで図書館に入った。

 警官は銃を構えて犯人を威嚇するものの、犯人は武器を捨てず警官の方に向かってきた。やむを得ず警官は2発発砲。顔と胸部に弾丸を受けた犯人はその場で絶命した。

 結局事件は2人死亡、7人軽傷、容疑者死亡という形で幕を下ろした。死者2人のうち、1人の少年は十数箇所を殴られ撲殺。1人の男性も首を切られ、救急に運ばれたがまもなく息を引き取った。

 幸い、他の7人は軽傷で済んだ。なんでも振り回した包丁がかすった程度の裂傷だったらしい。

 蔵書数6万弱の小さな図書館で、監視カメラを設置すべきか検討していた最中の事件だった。

 犯人の男性の名前は丸山麗亜。田中太郎より2歳年下の28歳で、工務店に勤務していた。

 この事件は直ぐにマスコミによって大々的に報道され、犯人の素性や動機について様々な憶測が飛び交った。テロではないかとの見方があることから、海外でも大きく報道された。

 一通りネットに出回っている情報を洗った太郎は、頭の中で「彼」の顔を必死に思い出そうとしていた。報道されていた「謎の球」が太郎の想像通りの代物であるなら、間違いなく田中太郎と丸山麗亜は過去に面識がある。

 


 次に、ツイッターのアプリを開いて「謎の球」で検索をかけてみた。

 案の定、事件をエンターテイメントかのように楽しむ奴らの殺伐としたツイートが並んでいた。

「犯人は新興宗教にハマっていたんじゃないか。球は水晶玉のような役割かもしれない」

 短絡的すぎる発想だ。

「やっぱりテロだよ。球は犯人の祖国の特産品に違いない」

 何故テロなら外国人であることが確定なのか。あと、灰色の球体が特産品の国はいくらなんでも他にまともな産業が無さすぎだ。

「以前に殺した人間の遺体の一部が入ってるとか」

 これはちょっと気になる。こういうネタで一本サスペンス小説を書けば、新人賞で1回目の審査くらいはギリギリ通るんじゃないか。いや、やっぱり通らないか。

「デーモン・コアでしょ」

 いやそれは何?

 太郎はあまりにも無秩序なタイムラインを見て少し口角が上がったが、直ぐに自己嫌悪に陥って真顔に戻った。

 2日前に起きた無差別殺人事件ですら、陰謀論大喜利の場にしてしまうというナイーブさ。あらゆる出来事を見世物のように「消費」するネット社会に辟易しつつも、その享楽を捨てきれないでいる自分にも失望していた。

 


「事件について調べているんですか」

 太郎の背後からバリトンボイスが響いた。学生の頃に教師から当てられた時と同じ、首筋にピリッと電流が走るような感覚を覚えた。

 椅子ごと振り返ると、プログラマーの森永杜夫がいた。

「ええ。地元の話なんで、少し気になって」

 森永は角ばった顔に180センチ近い長身で、この会社ではそういう格好は珍しくないがネクタイをつけていなかった。入社するまで知らなかったがどうやら太郎の大学の同窓だったらしく、昼休みになると頻繁に話しかけてくる。

「自分の故郷でそういうことが起きると、たとえ自分とは関係なくても気分が悪いですよね。僕の地元なんか、検索しようとしたらサジェストに『事件』って出てくるんですよ」

 森永はそう言いながらも、話したくてたまらないといった雰囲気だ。恐らくは彼の鉄板ネタというやつなのだろう。ここは他人の携帯電話を覗き見たことの注意は後にして、ひとまず彼の話に乗ってやるしかない。

「何の事件ですか?」

 太郎は、座ったままでいるべきか椅子から立ち上がって話をすべきか煩悶しながら尋ねた。

「半グレっていうんですかね。暴走族と暴力団の間みたいな奴らが地元にいたんですけど、そのメンバー3人がカップルの乗った自動車を襲ったんです」

「あ、なんか聞いたことあるかも」

 太郎は興味があるような素振りを見せるために、少し腰を浮かせた。太郎の傷一つ付いていないお尻が椅子から離れる。森永はルアーに食らいついた魚を逃さないかのように、早口でまくし立てる。

「まず車を停車させて、窓を金属バットで割ったんです。そして二人を窓から引きずり出して山奥へ連れて行き、女を輪姦して、男は……」

 太郎は右手で森永を制止した。オフィスで食事を取っている人もいるので、流石にこの先を語らせるわけにはいかない。

「いや、あの、もうわかりましたから。あの事件ですよね。10年くらい前に起きた生倉カップル殺人事件」

 生倉というのは、磐手県の生倉市のことだ。ここで初めて、太郎は森永が東北地方出身の人間であることを知った。

「ええ、そうです。生倉は人口7万人の小都市ですから、今や生倉といえば『カップル殺人事件の』が枕詞につくんです。生まれ育った人間としては堪ったもんじゃないですよ」

「デジタルタトゥー、か……」

 太郎は最近覚えた単語を口にしてみた。インターネット上に残る、消せないネガティブな記録のことだ。

 森永は「自分もその言葉を知ってますよ」というアピールなのか、被せるように言った。

「デジタルタトゥー、ですね。今やなんでもネット上に記録として残る時代ですからね。発信者や警察が消そうとしても、ねずみ算的に次から次へとアーカイブが拡散されます。人ごとじゃないですね」

「でも、そういうのって今に限ったことじゃないんじゃないですか?」

 女性のハスキーボイスが割り込んだ。食堂で吉野義男達と食事を取っていた緑髪の町田真知子だ。いつの間にかランチを終えてオフィスに戻ってきたらしい。町田は田中の横の席に座った。

「ああ、町田さん。ええ、その」

 森永杜夫のさっきまでの多弁は鳴りを潜め、外国人に英語で道を尋ねられたTOEIC10点の日本人みたいになった。

「どういうことですか?」

 TOEIC10点の代わりに太郎が町田に聞いた。太郎も女性と話すのが得意というわけではないが、町田とは同じチームでずっと働いているため今は気兼ねなく話せる。町田の緑髪のポニーテールが、風鈴のように揺らぐ。

「ある事件の話が人づてに伝えられて、次第に尾ひれがついて伝承とか説話になる。モーセが海を割ったとか、イエスが復活したとか」

菅原道真の祟りとか」

「そうです。そういう真偽不明の逸話が浸透して、個人や地域に二つ名がつけられるようになるんじゃないですかね」

 太郎は町田の慧眼に唸った。太郎は彼女が緑色の髪で入社した時、頭痛のタネが増えると思ったが、蓋を開けてみれば深い教養を身につけた知識人だった。

「なるほど。そう考えると、デジタルタトゥーとはより膨大になった伝承と言えるんですかね」

「口承から書物へ、書物から新聞へ、そして新聞からネットへ。規模は違えど、伝言ゲームによって誇張された情報が広まるという点では殆ど同じです」

「リップマンの『世論』を思い出しますな。タブロイド紙によって市民に植え付けられたステレオタイプが、徐々に一元化された世論を形成して行くという……」

 TOEIC650点くらいまでコミュニケーション能力を取り戻した森永杜夫が言った。町田は森永の方を向いた。

「そう、ステレオタイプってやつです。ネット社会の厄介なところは、ステレオタイプの発生源が権威者やマスメディアだけにとどまらず、大衆が互いに監視しあい、互いにデマの流布やレッテル貼りを行うようになったところだと思いませんか?」

「ええ、ああ、はい」

 森永の日本語力が再び日常会話不能なレベルにまで下がった。町田は怪訝そうに森永を見つめる。太郎が助け舟を出した。

「今や世界はディストピアのような相互監視社会になってしまったということですかね。――興味深い話だけど、そろそろ時間です。続きは帰り道で聞くことにしますよ」

 町田はオフィスの壁にかけてある丸時計を見やった。時計の針は、12時55分の少し手前を指していた。太郎達とは別のチームに所属している森永杜夫は、二人に別れを告げて自分のデスクへ向かった。昼食を終えた他の社員達がぞろぞろとオフィスルームに戻ってくる。

 


「――そういえば、太郎さんに聞きたかったことがあるんですよ。」

 デスクの上の資料を片付けながら、町田は右隣の太郎へ言った。

「なんですか?」

「さっき食堂でやってたニュース、太郎さんも見ましたよね。あの球体の正体、太郎さんは何だと思いますか?」

 予想外の質問に、太郎は狼狽した。

「ああ、そんなこと言ってましたね。皆目見当もつかないです」

 町田は身を乗り出し、太郎に小声で言った。

「私、もしかしたら知ってるかもしれません」

 太郎の背筋が凍った。数瞬の間、空調の音を凄まじい轟音に錯覚してしまうような沈黙が流れた。

「いや、まさかそんな、あれは……」

 町田は小悪魔的な笑みを浮かべた。

「やっぱり、田中さんは知ってるんですね。慌てた様子で食堂を出たから、何かおかしいなと思ったんです」

 太郎は右手を目の上に被せた。彼は返答に困った時、このポーズをするのが癖だった。

「いや、誤解だよ、町田さん……」

 そう言った刹那、昼休み終了のチャイムが鳴った。

 ガリレオソフトは基本的にフレックスタイム制を導入しているが、自分で時間管理のできない社員が極めて多いため、一応チャイムを鳴らすことにしている。

「後で教えてくださいね」

 町田は太郎に耳打ちした。 太郎の脳裏に、KO寸前でゴングに助けられるボクサーの姿が浮かんだ。

 町田は、液晶タブレットの電源をつけた。グラフィックデザイナーである町田は、ディレクターやプランナー達と打ち合わせながらこのタブレットにキャラクターや背景を描き込む。デジタルネイティブよろしく、メモや下書きも全てこの板1枚で済ませている。

「ああ、それと」

 町田がタブレットから顔を上げ、再び太郎の方を向いた。

「ご飯粒、ついてますよ」

 太郎は無造作に指で米粒を払った。

 


「僕、あの犯人と同じ小学校に通ってたんです。小学校自体は玉ノ森区が吸収合併される際に廃校となったんですが」

 自分の予想が当たっていれば、という前置きをしてから田中太郎は言った。

 赤原第一ビルを出てると、目の前に国道N号が走っている。出口から右側の歩道を最初の歩行者用信号機まで歩くと、右側に喫茶店タブラ・ラサが佇んでいる。開発が進むビジネス街である赤原区にしては珍しい、30年以上続く純喫茶だそうだ。

 田中太郎と町田真知子は仕事を終え、《タブラ・ラサ》の窓際の席に向かい合って座っていた。テーブルの上には、太郎が注文したオレンジジュースと町田が注文したアイスコーヒーが鎮座する。

 雲量は昼間より随分少なくなり、夏至近い太陽が窓越しにチョコレート色のテーブルを照らしている。エアコンがあまり効いていないのか、うっすらと汗を掻く程度には暑かった。太郎と町田の他に客はいなかった。

「あれ、田中さんって何歳でしたっけ」

 30です、と太郎は答えた。創業して20年にも満たないゲーム開発会社に、年功序列や階級の概念は殆ど存在しない。ディレクターやプロデューサー以外のスタッフは、年齢に関わらずお互い敬語で接する。皆、同僚と友人関係を築くことよりも、相手の地雷を踏んで余計な揉め事を起こさないことを重要視しているのだ。

「ということは、犯人より2学年上ってことですか」

 町田はアイスコーヒーをストローで啜った。太郎が口止め料として奢ってくれるそうだったので、町田はもっと高い飲み物を頼むべきか逡巡したが、結局450円のアイスコーヒーを頼んだ。

「ええ、そのはずです。でも、お互いの名前すら知らないんですよね」

 太郎は、なぜ今「知らなかった」と過去形で言わず、現在形でその少年との関係を叙述したのか自分でも理解できなかった。

「昼休みや放課後、よく2人で一緒に遊んでいました。僕と彼は頻繁に小学校の図書室で会って、最近読んだ本について語り合ったりしていました」

「小学生が読書会ですか。ちょっとマセてますね」

 太郎は照れ笑いを浮かべた。

「ただ、ある時から顔にあざや擦り傷が目立つようになりました。本人は『転んだ』とだけ言っていました」

 不穏な言葉に町田の身体は反応し、アイスコーヒーが入った円柱型のグラスを強く握りしめた。病名の告知を待つ患者のように、覚悟を決めた表情で太郎を見つめる。真紅のストローが、気だるげに黒い液体の中を氷を掻き分けながら彷徨う。

「決定的な出来事が起きたのは、僕が6年生の時です。彼が『ボール』という題名のSF小説を紹介してくれたんです」

「ボールって……」

 思わず声が出る。町田は「あ、どうぞ続けてください」と次の言葉を促した。

「海外の小説の翻訳版だったと思います。小学校の図書館に置いてある本にしては相当難しい語彙が並んでいました。僕は最初、ストーリーについて何も聞かずにその本を借りたのですが、1週間経っても10ページほどしか進まなかったので彼に助けを請いました」

 太郎の表情は、丸山麗亜だったかもしれない少年との思い出を懐かしむようで、だがどこか憂いを帯びていた。オレンジジュースには殆ど口をつけておらず、表面に氷が溶けた水の層が出来ていた。

「彼は、とても楽しそうに僕にあらすじを教えてくれました」

 


「ボール」は、ポーランドの作家が50年前に上梓したSF短編集だ。表題作「ボール」のストーリーは以下のようなものだ。

 


 主人公クリスは、国立大学で教鞭を振るう優秀な数学助教授で、教授になるのも時間の問題だと言われていた。

 だがある日、クリスの運命の歯車が狂う。早朝、校門の前で数学教授のアーロンが刺殺体で発見される。アーロンの右手には、灰色のボールが握られていた。

 警察が学内を捜査すると、数学研究室にあるクリスの机の引き出しから同様のボールが見つかった。無論クリスには身に覚えが無かったが、警察は他に証拠も無かったので彼を学長殺害の疑いで逮捕した。

 ここまでなら、よくある冤罪事件をモチーフにしただけの物語だ。だがここからが違った。

 クリスは数学で培った論理的思考を活用し、取調室で自分に犯行が不可能であったことを完璧に証明してみせたのだ。それどころか、ボールを彼の机に隠すことが出来る人物は、アーロン学長ただ一人であることも導き出した。

 クリスは釈放。事件は自殺として処理され、謎のボールはクリスに濡れ衣を着せるのが目的であったとされた。数学部で不動の地位を獲得し、教授にまで上り詰めたアーロンにとって、急に頭角を現して毎年のように革新的な論文を発表するクリスは脅威そのものだったのだろう。

 事件は一件落着かと思われたが、実は違った。クリスは代数学の講義の最中、アーロン自殺説の決定的な矛盾点に気がつく。

 当時学生の試験を控えていたクリスは、問題と解答が書かれた紙が盗難されないよう引き出しに鍵をかけておいたのだ。引き出しの鍵は私物で、彼しか持っていない筈だった。普段滅多に鍵などかけないのと、事件当日は何故か鍵が開けられていたのもあって、鍵をかけていたことをすっかり忘れていた。

 結局、事件の推理は暗礁に乗り上げた。どうやってクリスの引き出しが開けられたのか。あのボールは何を意味するのか。事件の真犯人は何者なのか。物語は謎を残したまま終幕を迎える。

 


「……僕と彼は、この物語には必ず答えがあると思った。僕たちはノートに時系列で物語を整理したり、さまざまな事件についてインターネットで調べたりしたんです」

「はい」

「クリスの二重人格説や、地球外生命体が介入したという説を立てたりしました。間違いなく、少年時代で一番楽しい時間だった」

 町田が真剣な面持ちで口を開いた。いつのまにか日は暮れ、レトロな照明の光が喫茶店内を包み込んでいる。オレンジジュースのグラスの底に水滴が溜まり、紙のコースターを滲ませていた。

「もしかしてあの球体というのは、その推理の最中に……」

「そう。実際に再現してみたんです。報道では直径20センチで重さ500グラムと言っていましたが、実際には直径8インチ、質量2ポンドです。僕はヤードポンド法なんて知らなかったので、ほとんど彼がやってくれましたが」

「……確認しますけど、あなたが当時小学校6年生だったんですよね? 翻訳小説を読む国語力といい、10歳かそこらの少年が何故そこまでの知識を……」

「いやあ、今となってはわかりませんね」

 町田はしまった、という表情をした。太郎は町田の曇った顔の理由をすぐに察して発言の補足をした。

「そういう意味じゃないんです。二人で推理ごっこをしていた時期のある日を境に、彼の姿を見なくなったんです」

「えっ……」

「僕は気になって、下の学年の教室をいろいろ覗き見してみました。すると、何年何組だったのかは忘れましたが、1週間1度も出席していない机がありました」

 太郎はここで一旦話を中断した。町田に、この後は気分を害するかもしれないが、それでも聞くかと尋ねた。町田は、最後まで聞くつもりで来たと答えた。

「その教室の子供達に、欠席している児童について色々と質問しました。少年は非常に内気な子で、クラス内の子供達と話すことはほとんど無かったそうです。私と会う時は活発で饒舌な印象だったので、それを聞いた時はとても驚きました」

「貴方が唯一の友達だったんですね」

 町田は寂しそうに目を細めて微笑した。

「また、少年は複数人の児童から暴力を含めたいじめを受けていたそうです」

「ああ、やはり……」

「先生の目の届くところでもいじめは行われていましたが、見て見ぬ振りをしていたと」

「ひどい……」

 町田は右手で口を抑え、天を仰いだ。板張りの天井には、長い歴史を感じさせるシミが点在していた。

「少年はいじめの現実から逃避するため、授業中でも例の推理をノートに書き殴っていたようです。授業中それを見つけた先生はノートを取り上げ、あろうことかノートの内容を皆の前で読み上げました。少年が机に突っ伏し泣き噦ろうが、構わず音読し続けました」

 引っ込み思案でいじめられっ子の少年にとって、それがどれほど屈辱的で絶望的な出来事か、心中察するに余りあるものがあった。町田の瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。そんな表情の彼女を見るのは初めてだった。

「それ以来、少年は学校に来なくなったそうです」

「で、でも……まだ彼がその犯人だと決まったわけじゃないんですよね?」

 懇願するような声色だった。

「はい。正直僕は信じたくないです。彼は聡明な子でしたし、どういう理由だったとしても刃物を持って暴れるなんて蛮行に至るとは思えません」

 太郎は一呼吸置いて、抑えたトーンで言った。

「――しかし、気になる点もあります」

 太郎は、氷が完全に溶けて薄くなったオレンジジュースを口に含んだ。それを見て町田も自分のグラスを掴んだが、アイスコーヒーはすでに空だった。

「殺害された男性ですが、年齢は28歳で営業職をしていたそうです」

「28歳……」

「男性には娘が1人いたそうです。事件発生時、彼は娘と図書館を訪れており、娘は犯人によって軽傷を負いました。そして、もう一人の殺された少年。彼の死因は、身体中を殴られての撲殺です」

「確かに、そこは私も気になりました。刃物を持って暴れている人が、わざわざ殴り殺すなんて筋が通ってません」

「……被害者の男性は、高校と大学でボクシング部に所属していたそうです」

 町田は何かに気づいてしまったようにハッと正面を向いた。口を真一文字に結んだ太郎と目があった。

 不可解な点はまだ存在した。ほとんど無傷に近い切り傷で済んだ他の7人の被害者たち。あまりにも駆けつけたタイミングが良すぎる警察官。拳銃を構えた警察官に殺してくれと言わんばかりに向かって行き、そのまま射殺された犯人。

 間違いなくそこには、「社会への恨みから起こした無差別殺人」以上のストーリーが隠されているように感じざるを得なかった。

 2人は、小倉塚図書館で起きた光景を頭の中でシミュレーションしていた。それが妄想の域を出ない不毛な行為であることは承知していたが、まるでその場に居合わせかたように脳が勝手に状況を再現してしまうのだ。

 


(おら、どけ!殺されたいのか!用があるのはその子だけだ!)

(娘に何をする!)

(僕のことを覚えていないのか?)

(お前なんて知らん!娘をこっちに渡せ!)

 


(さあ、その子を殴り殺してみろ!僕がされた時のように!)

(……殺せば、娘を解放してくれるんだな?)

(……ああ、約束してやる)

 


(これで、気は済んだか……?早く、娘を……)

(クソ野郎が、死んでしまえ!お前なんか地獄に落ちろ!)

 


(本が万引きされたと通報を受けたのですが…… こ、これは何事ですか!)

(おまわりさん、通報したのは僕です)

(どうしてこんなことを……)

(僕を早く殺してください……)

(やめなさい!今すぐ武器を捨てなさい!)

(うわああああああ!!)

 


 町田が口を開く。

「もしかしたら、怪我をした被害者の方たちが新情報を落としてくれるかも……」

「丸山麗亜は頭のおかしい大量殺人鬼。殺された男性は子供を守って死んだ正義の人。金庫に入っていた謎の球は、犯人の危険な思想を裏付ける証拠品……」

 町田には、太郎が淡々とした口調で語っていることの真意が掴めなかった。咀嚼して、ようやく昼間のオフィスで森山杜夫とした会話と絡めているのだと解った。

 ステレオタイプ。多くの人に広く浸透している先入観。丸山麗亜や灰色の球体に対し、筋の通った一連の物語を求めたがる人間の本性。

「地獄のような目に遭った後で、わざわざ自分から世間の反感を買うようなことを証言する人が果たして存在するのでしょうか。ステレオタイプに立ち向かう勇気が、彼らにあるのでしょうか」

 町田はその質問に答えられなかった。太郎も、答えを求めてはいなかった。

 太郎自身、丸山麗亜という人物に田中太郎特有のバイアスを抱いてしまっていた。そんな身でありながら、他者のステレオタイプを糾弾しようとする自家撞着。

 こんなものに、正解などないのだ。いや、あってはならないのだ。

 監視カメラが設置されていない、小さな図書館で起きた事件。田中太郎や町田真知子も含め、あの時あの図書館にいなかった人間には断片的な情報から推察することしかできない。その推理によって得られるのは、所詮真実の仮面を被ったステレオタイプ、自分にとって都合のいい解釈でしかない。

 我々部外者にできる唯一の徳行は、死んでいった全ての人々に無垢なる祈りを捧げることだけだ。

 


 沈思黙考すること小半時、太郎は最早ミカン味の水になったオレンジジュースを飲み干して言った。

「ひとつだけ、確かに言えることがあります」

「それは、なんですか?」

「この事件の経緯がどういうものであったにせよ、彼の起こした行為によって2人の命が奪われたことは紛れもない事実です。ましてや、1人は無辜の少年です。……丸山麗亜はただの殺人鬼です。彼が僕の知るあの少年と同一人物だったとしても、無差別殺人をしていい正当な理由などあるはずがない」

「……ええ、そうですね」

 入った時とは打って変わって、喫茶店の店内は肌寒さすら感じるほど冷房が効いていた。

 


 会計を終え、二人は店の外に出た。球体の真相を教えてくれたこととアイスコーヒーに対して感謝の言葉を述べた町田は、最寄り駅の方角へ歩き出した。

「あの、思い出したことがあったので最後に一つだけいいですか」

 太郎は駆け寄って町田を呼び止めた。

「なんですか?」

 街灯が町田の髪に反射し、目に良いのか悪いのかわからない緑色光線が太郎の網膜に放たれた。

「事件が起きた図書館、僕も昔通ってたんです。犯人が本を読みながら犯行の準備をしていたのは、東端の本棚。そこにあるのは……」

「そこにあるのは?」

「……いえ、すいません。やっぱり……」

 町田真知子は何も言わず、何も聞かず、ただ微笑むだけだった。それを見た太郎は、心の奥の氷が溶けていく気がした。

若者の国語力が低いって言うけど、そもそも国語力って何なのさ?

人は、国に住むのではない。国語に住むのだ。ーーエミール・シオラン

 


 近年、若い世代の国語力の低さが問題視されている。

 

 特にそれが顕在化されるのが「セルロース問題」という奴で、これは元々AI研究において「AIが日本語の文章を理解できているか」を判別するために作られた問題だ。


「アミラーゼという酵素グルコースがつながってできたデンプンを分解するが、同じグルコースからできていても、形が違うセルロースは分解できない」

このとき、セルロースは( )と形が違う。

A. デンプン

B. アミラーゼ

C. グルコース

D. 酵素

 

 冗長な文章だが破綻はしていなので、ちゃんと読もうとすればちゃんと読める。勿論この問題を解くのに「化学の知識」なんて一切不要だ。答えはAだが、結構多くの人間が間違えるらしい。


 貴方がこの問題の正解率を見て、日本の若者の読解力の低さを憂うのは勝手だ。しかしそれでは何の解決にもならない。そのような「読解力がなくても大人になれる」というシステムを作ったのは他でもない親世代の人間達だからだ。このまま放置すれば今の世代がまた非合理的な教育システムを作り、子を育てるようになる。


 とはいえ、今更日本の全体教育が国語に関してできることはあまり残されていない。ほぼ全ての国民は9年間の義務教育でうんざりするほど国語教育を受けるし、識字率も明治時代からほぼ100%のままである。日本に住んでいると勘違いしがちだが、国民の識字率が95%を切っている国はけっこうある。シンガポールでも94%程度だ。


 思うに、国語力の低下といっても日常生活に支障をきたすほどではないが、「表面上日常生活に支障をきたさないからこそ、場面場面で支障をきたしている」という状況になるのだろう。    


 そしてこの問題は無自覚な人間であれば、若者に限らずどんな世代でも起こりうる。いやむしろ「自分はリテラシーがある」と理由もなく過信している大人の人達ほど怪しいのではないだろうか(ダニング=クルーガー効果)。


 私は自分のリテラシーが高いとは思わない。だが大人たちはこの問題をただ問題にするばかりで、自分から建設的な提案はせず煙に巻いている。なので私はこの問題に対して「原因」「公理」「定義、定理」の3つのチャプターに分け、アホなりに少しは建設的な解決策を講じてみる。


 「原因編」では特に21世紀以降の日本人にフォーカスを当て、この問題の根本原因を解き明かして行く。

 

 「公理編」では、議論の前提条件を設定するため、「そもそも言語とは何か」「論理とは何か」を考えてみる。

 

「定義、定理編」では、公理を土台に議論を展開する。

 これは論文じゃなくてあくまでエッセーだ。厳密に論理を進めたりはしないので、肩の力を抜いて読んでほしい。

 

 

 

目次

原因編

・ガジェットに頼る現代人

・日本人の「曖昧病」

公理編

・言語に絶対的真理は存在しない

・あるのは共通理解だけ

定義・定理編

・マクロからミクロへ、抽象から具体へ

・対比と論理の鎖

・言い換え表現の豊富さが文章の巧拙を分ける

・日本語の文章に多い「逆茂木型」

・設計図を書くことの重要性

・実践とフィードバックが何よりも重要

おわりにーー基本を知れば、応用が利く

 

 

原因編

 

・道具に頼る現代人

 

 農耕の開始以後の人間の歴史は、道具の歴史といってもいい。武器や農耕具から始まり、現在ではテレビや車やスマートフォン。技術を進歩させることで困難を乗り越え、繁栄していった。

 

 しかし便利な道具が増えることは、同時に人間本来の能力を失うということでもある。服や靴で身体を覆った結果免疫力が落ち、検索すれば情報が手に入るから記憶力が落ち、ワープロがあるから漢字が書けなくなる。自分の身体で対処する必要性がなくなったのだから、当然の変容だ。

 

 言語においても、外付けの媒体に依存したせいで能力が落ちたと考えられる。今までにないくらい網羅的な辞書が目の前にあるのだから、語彙力はそりゃ低下する。次に書くべき言葉は予測変換機能が大体教えてくれるし、そもそも1から全部書かなくても何処かからコピペしてバレないように一部を編集すればいい。技術に頼ることは、貴方自身の能力の退化とトレードオフなのだ。

 

 

 ・日本人の「曖昧病」

 

 現代人の国語力が落ちる原理はわかった。では日本人に限ればどうだろう。

 

 私は日本において国語力が低い人間が多い理由は、日本特有の「曖昧病」にあると考える。

 

 日本人は特定の概念に対して定義を曖昧にしたがる傾向にある(この文自体がめちゃくちゃ曖昧だ)。結果、その概念に対する理解や習熟が遅れる。「寿司屋の修行」「浮世絵」「国語力」等々……挙げ句の果てには「粋」などという訳の分からない物差しを当てがって、物事の良し悪しを判別しようとする。

 

 学習に対しても、体系的網羅的に学ぶのではなく「まず強くぶつかって、後は流れで」な経験的学習をやらせる傾向にある。「センス」「筋がいい」という言葉を多用するのも、この傾向による。国語に対しても、「たくさん本を読め」とか「読解力が無い奴は一定数いるからどうしようもない」程度のことしか語れない。

 

 もちろん真剣に国語と向き合った結果、そういった答えに行き着くかもしれない。でも大抵の場合はまともに考えたり調べたことがない。故にその結論になった理由を筋道立てて説明できない。これは読解力がある人にもない人にも共通する習性だ。

 

 自分なりに筋道立てて話した結果、それが間違っていても別に構わない。そう言ってもとにかく説明したがらない。「センス」「遺伝」「環境」「読書歴」こういう定量化が難しい単語を持ち出して煙に巻こうとするのだ。

 

 私は説明する。間違っているかも知れないが説明してみる。

 

  100年ほど前、日本に嘉納治五郎という男がいた。当時東京帝大で物理を学んでいた彼は、身体を鍛えるために柔術道場の門を叩いた。

 

 しかし道場では「これはよくない」「こうしなさい」という指導はなく、ただ治五郎は無言の師匠に投げられるだけだった。「身体で覚えろ」というやつだ。

 

 毎日ボロ雑巾のように畳に投げつけられるだけの訓練。無意味さを悟った碩学の徒は力学の知識を活かし、体得的な柔術を体系的な「学問」として止揚させた。これが柔道の始まりだった。

 

 

公理編

 

・言語に絶対的真理は存在しない

 

 言語について語るときの大前提として「言語に絶対的真理は存在しない」ことだけは公理として共有させて欲しい。

 

 なぜ言語に絶対的な基準やルールが存在しないのかというと、言語は自然に生まれたものだからだ。言語が生まれた時、そこには「論理」や「国語力」なんていうひな形はなかった。ただ互いとコミュニケーションを取る手段として、数種類の単語を使い始めたのが言語の始まりだ。

 

・あるのは共通理解だけ

 

 では論理とは何のためにあるのか。有り体に言えばそれは「共通理解」だ。

 

 まず互いにここは確かだよね、という原理(排中律同一律等)を設定する。そしてその原理から定理(三段論法、ド=モルガンの法則、不完全性定理等)を導き出す。こうして得られた定理からまた論を進め……という具合である。

 

 論理が言語に対して持つ価値は、物理法則が自然現象に対して持つ価値に近い。つまり、自然のカオスな振る舞いをある程度の精度で予測するのが物理法則で、言語のカオスな振る舞いをある程度の精度で予測するのが論理なのだ。ぴったり当てなくてもいいから、求めたい精度の中で答えが得られればそれでいいのだ。

 

 相対性理論量子力学が台頭したことによって、古典力学はその存在意義を無くしたと思われがちだが、実はそうではない。古典力学は極めて単純な数式だけで、大体の自然現象についてそれなりの精度で予測を立てることができる。古典力学くらいの精度の予測を、古典力学以上のシンプルな原理設定で導き出せる理論が登場しない限り、古典力学の価値は失われない。

 

 だからこそ言語も、「真の答えなどない」と認識しながらも、ある程度の精度で良い文章が書け、ある程度の精度で難しい文章を読めるルールを知っておくと便利だ。

 

 狭義での論理学は、扱う内容が限定的すぎて自然言語の振る舞いに対してはそこまで便利じゃない。なのでもうすこし国語をマクロで捉えられるようなルールを設定したい。

 

 

定義・定理編

 

・マクロからミクロへ、抽象から具体へ

 

 まず第1のルールは「マクロからミクロへ、抽象から具体へ」というプロセスだ。これは読み書き両方に共通する最も重要な考え方だ。

 

 全体を俯瞰で眺め、そこを流れる一本のロジックやテーマ性を理解することが先決だ。どうしても枝葉末節の部分に目が写りがちだが、そういった細部の要素は一旦無視したほうがいい。

 

 読みの場合、俯瞰でまずは全体を眺め、そこから少しずつ細部へと目を移す。本を読むなら「(前提となる知識)→タイトル→目次→本文」という順だ。パラグラフ(段落)は1行目(トピックセンテンス)で主張が書かれ、その後のサブセンテンスで補足事項が列挙される。

 

 小中学校で習った「対比、並列、問題提起に注目しろ」というのはこのことを言っていたのだ。言葉を補足すれば「文章全体を貫く対比構造や、パラグラフの並列関係や、著者が読者に問題提起したいこととそれに対する著者の考えるに注目しろ」だ。

 

 次はライティングについてだ。文章を書く場合、いきなり1行目から書くと大抵失敗する。思わぬ部分が膨れ上がったり、途中で横道に逸れたりしてしまうのだ。

 

 勿論、1から書いてうまく行く事もあるだろうが、それは練達した絵描きが下書きなしで描けるのと同じ理屈だ。全体像が常に掴めているから一部が異様に肥大化したりバランスが崩れたりせずに描けるのであって、私たちのような経験値の足りない人間のやることではない。

 

 まずはタイトル=メインメッセージを決める。そこからマクロな設計図を練る。目次や見出し文を決め、ようやく本文を書く。

 

 本文は膨大なパラグラフで構成されるが、そのパラグラフも「抽象→具体」で著述されていることが望ましい。1つの段落に1つのメッセージ。2文目以降は1文目の補足と考え、具体的な説明や例を書くだけに止めよう。

 

 

・論理の鎖

  第2ルールは「論理の鎖」だ。論理の鎖とは、AならばB、BならばCという論理的な流れのことだ。マクロとミクロの切り替えが重要度に応じて階層を切り替えることなら、論理の鎖は同じ階層のコンテンツを理路整然と並べる技術だ。

 

 これをしっかり把握しておかないと、マクロとミクロの切り替えができていても相手にとって読みやすい文章にはならない。目次の第1トピックが「一夜漬けでやればなんとかなる」で第2トピックが「1週間前から準備しよう」なら、その本のAmazonレビューは間違いなく1点止まりだろう。

 

 日本人は奥ゆかしい性格からか、多くを語らず論理の鎖を無視した文章を書きがちである。しかし分かりやすい文章を書くならこれは致命傷だ。読み手のことを考えた文章を書きたいなら、多少くどくても論理の鎖を出来るだけ網羅しよう。

 

・言い換え表現の豊富さが文章の巧拙を分ける

 

 第3ルールは「言い換え」だ。

 

 全く同じ表現が延々と続くと、読み手は退屈に感じる。そして書き手がバカに見えてくる。他人にバカに思われたくないことだけを考えて生きている諸君は、「兎に角言い換えろ!」という書を額縁に飾るべきだ。

 

 言い換え表現という考え方は、読む際にも有用だ。一見すると晦渋でねちっこい文章に見えても、よく読むと同じことをずっと言い換えていたなんてザラだ。そう考えると未知の単語が出てきたときの恐怖心も少し和らぐだろう。

 

 

・日本語の文章に多い「逆茂木型」

 

 「理科系の作文技術」という本では、日本語の分かりにくい文章の典型として「逆茂木型」を挙げている。枝葉末節の話題から始まり、幹に達するとまた別の細かい話題に移り、最後にすべての論点が纏まり結論に辿り着くような文章のことだ。

 

 王道アニメなら最終回で今まで登場したキャラクターが全員集合し、感動のフィナーレを迎えることだろう。しかし論文やレポートでこんなことをやったら感動のフィナーレどころか留年というバッドエンドが待っている。

 

 先程の3つのルールに照らし合わせてみよう。逆茂木型の文章とはマクロの階層とミクロの階層の切り替えが雑で、論理の鎖も曖昧な文章ということになる。

 

 これは日本人特有の文化でもあるので、必ずしも茂木型の文章が好ましくて逆茂木型で書いてはならないというわけではない(論文を書く場合を除く)。しかし「日本人はこのように書く傾向がある」と知っておくことはいつか役に立つはずだ。

 

 

・実践とフィードバックが何よりも重要

 

 色々と理屈っぽいことを述べてきたが、言語スキルはなんやかんやで経験がものを言うので実践が一番大事だ。

 

 しかしただ本を読み漁り、自由気ままに綴るだけではこのスキルは身につかない。前述のようなルールや基準を設け、しっかりとフィードバックすることが大切だ。テストを受けたり、読書日記をつけたり、書いた文章を読み直してもう一度書き直す。そういう実践と経験の積み重ねとして得られるのが国語力という技術だ。

 

 

 おわりにーー基本を知れば、応用が利く

 

 言語というものはこの程度では到底説明できないくらいには奥が深いことは、日本一傲慢な私でも流石に承知している。

 

 だが一つ言えるのは、こういう基本的なものの考え方が身についていないのに夏目漱石志賀直哉のような美しい文章を飛び級して書こうとするのは愚行だということだ。

 

 

 

 

1円もアフィリエイトで儲けていないが、アフィリエイトで10億儲ける方法を考えてみた

  私は狂っているので、何も成功していないがあらゆる分野における成功の法則をいくらでも書くことができる。以下にアフィリエイトで10億稼ぐための方法を捏造したので、これを読んで君も是非アフィリエイトで10億稼いでほしい。

 

 

目次

・嘘をつけ

・「極力嘘をつく」とかのレベルを超えて100%嘘をつけ

・誠実さを捨てろ

・読者との距離を近づけろ

・丁寧に引用するくらいならパクれ

・具体的な数字があるなら具体的な数字を書くな

・「最低限守るべきルール」や「成功の法則」は完全に無視しろ

ブルーオーシャンを探すな

先行者利益を狙うな

・1人の賢者より99人のバカを相手にしろ

・人は情報を買わない、感情を買う

・おわりにーー霞を食っているのは仙人よりむしろ俗人

 

 

・嘘をつけ

 

 成功しているアフィリエイトブログの最大の特徴は「嘘をついている」ことだ。

 

 社会的スキルというのはとどのつまり「どれだけ自信満々にハッタリをかませるか」に集約される。君は何か有益な情報を読者と共有しようと思ってはいけない。「りんごを食べれば幸せになれる」と信じているなら「りんごを食べていると幸せになれない」と書かなければならない。

 

 ここで気をつけたいのは、「りんごを食べなければ幸せになれる」という書き方をしてはならないということだ。人間の感情で最も強いのは恐怖だ。それも、「他の人に置いていかれるかもしれない」という疎外感からくる恐怖は、人間の遺伝子に刷り込まれた誤魔化しきれない感情だ。君はそこを刺激してやるだけでいい。あとは中身なんてどうでもいい。「本を読むな」でも「モンゴル人力士を応援するな」でも「深海に想いを馳せるな」でも構わない。

 

・「極力嘘をつく」とかのレベルを超えて100%嘘をつけ

 

 とはいえ、嘘のつき方にもそれなりの作法が存在する。それは「ホラを吹くなら貫き通せ」ということだ。

 現代人は未完成なもの、瑕疵があるものを異様に嫌う傾向にある。目だけは肥えた衆愚たちは、減点法で作品や人間を採点する。

 しかし彼らは脳みその容量が5ccしかないシーモンキーなので、長所も歴史的背景も裏事情も全く察知しない。だから完成されてさえいれば、パッケージ化にこぎつければ中身は素数を羅列しただけでも構わない。

 

 なにせ、今は学者が50年かけた研究の結晶より、月1で発売されるエセ学者の日本ヤバイ/スゴイ本の方が売れる時代なのだ。ああいう本を買い漁る読者たちは、皆自分はフェルマーダヴィンチのような独学者だと信じ切っているが、普通に芯も基礎教養もないので「本として完成されているか」しか物差しがない。

 

 

・誠実さを捨てろ

 

 しかしながらそこまで大掛かりな虚構の城を築きあげることは、大抵の人間にとっては至難の技である。多くの場合「良心の呵責」というやつが邪魔をする

 

 一度しか言わないからよく聞きなさい。 そんなモラルは無視しなさい。それは進化した猿程度の存在の手に負える観念ではない。

 

 それでも根っからの優しさや共感性が邪魔をする場合、「人格を変えてしまう」という手段がある。

 

 嘘の城を本当の城だと本気で信じる。自分の信念や中身から、その嘘を信じきるのだ。やがてその虚は実となるだろう。

 

 「読んでいない本について堂々と語る方法」という本がある。著者はベルギーの哲学者ピエールバイヤールで、タイトルの通り読んでいない本について堂々と語る方法を15のステップに分けて記述している。読んでみると良いだろう。

 

 

・読者との距離を近づけろ

 

 ここからは具体的な虚偽の城の建設方法に移っていこう。

 

 まず重要なのは記事のタイトルだ。メッセージは読者の本能に訴えかけるようなものが好ましい。

「ニキビを治す最高の方法は病院に行くことです」というのは少し不十分だ。「ニキビが嫌で外に出れない?じゃあ病院行こうぜ!」こちらの方が好ましい。

 

 本文についてもただ事実を述べるのではなく、語りかけるような文体にすべきだ。人間の脳は想像以上にアホなので、勝手に「この人は自分の問題に親身になってくれている」という錯覚に陥る。

 

 自分の体験談を語ることも親近感を誘うための重要なファクターだ。どうせ本当かどうかを確かめる手段はないので、いくらでも捏造すればいい。

 

 

・丁寧に引用するくらいならパクれ

 

 引用は論文や「ちゃんとした本」を書く際には絶対に必要だが、ブログや「騙すための本」を書く際には逆にマイナスになる。「この人は引用ばかりして、自分の主張に自信がないんじゃないか」という印象を相手に与えてしまうからだ。

 

 勿論「こんな科学的根拠がある!」「あの偉人もこう言っている」と虎の威を狩ることも重要だが、あくまで「自分の持論」という幻想を軸にストーリーを展開すべきだ。

 

 なので、自分がその記事で一番伝えたい論旨はパクリでもいいから「これが俺の考えだ」と宣言し、そこからその主張を支持する事実を列挙するのが望ましい。

 

 

・具体的な数字があるなら具体的な数字を書くな

 

「三つの法則で人生が変わる」

胃もたれが酷くて、居酒屋で唐揚げも食べられない……そんな時にはこの薬」

 このように、コピーライティングには具体的な数字や状況をつけることが鉄則だ。

 

 しかし具体的な数字を書くべきではない場面もある。それは具体的な数字が存在するものについて記述する時だ。なぜならば、その数字が間違っていた場合はデータオタク達によって重箱の隅をつつくような攻撃を受けることになるからだ。

「国民の10000人に1人が、自殺しているという事実」→「実際には10万人あたり15人前後ですよ?1.5人と書くべきでは?」

 

 こういういちゃもんを防ぐためにも、具体的な記述は本当に確かなものか真偽の判断が困難なものに限るべきだ。

 

 

・「最低限守るべきルール」や「成功の法則」は完全に無視しろ

 

 アフィリエイトで一発儲けようとする愚かな連中に一番多い失敗が、「成功の法則」や「最低限守るべきルール」を全て満たせば成功できると勘違いしていることだ。

 

 ちょっと調べれば分かる程度の成功の法則なんてのは、ほぼ全ての「稼ぎたいブロガー」が実践している。結果似たような情報や見た目の記事が乱立し、収入は低空飛行のままだ。誰からも好かれようとして、結果誰にも興味を持たれない好例と言えるだろう。

 

 

 ・ブルーオーシャンを探すな

 

 凡庸は稚拙より遥かに嫌われる。だからといって「自分にしかない情報」や「自分だからこそできること」にフォーカスを当てようとするのも下策だ。

 

 これは経営戦略論で「ブルーオーシャン戦略」と呼ばれるものに当たる。競争の激しい市場「レッドオーシャン」ではなく、既存の概念に付加価値をつけたりすることで未開拓な「ブルーオーシャン」を切り開き、そこで1位を目指そうというものだ。

 

 だが実際には、誰も競争に参加しない市場=何の需要もない市場だ。人間は腐るほどたくさんいるから、需要さえあれば人はそこに群がる。競争が一番激しい分野が、一番パイの大きな分野だ。

 

 重要なのはブルーオーシャンを探したり作るのではなく、一番需要の高い市場で差別化を図り、その差別化を悟られないという技術だ。

 

 「正々堂々戦ってまっせ」と騙りながら邪道の戦略をとるのだ。天保山を真面目に登るのではなく、エベレストの山頂までヘリで行き、「エベレスト単独登頂しました!」と高らかに叫ぶのだ。

 

先行者利益を狙うな

 

ブルーオーシャン」と並んでプチ起業家量産ビジネスでまことしやかに語られるのが「先行者利益」だ。

 

 勿論他の競争者が誰も居ない時には甘い蜜を吸えるだろう。だが需要が増えていった頃には、成功の理由を分析した後発者たちがその増えたパイを掻っ攫っていってしまう。消費者からすれば「パイオニアかどうか」なんてどうでもいい話で、より便利で気持ちのいい方を選ぶ。

 

 先行者利益などという突発的幸運を狙うのは、宝くじを買うことと本質的には変わらない。それよりも確実な「研究と実践」の道を選ぶべきだ。

 

 

・1人の賢者より99人のバカを相手にしろ

 

 これはもう言うまでもない、単純な数字の比較だ。金持ちかどうかもわからない賢者1人をパトロンにつけるより、老若男女上流層下流層問わず存在する99人のバカを相手に商売すべきだ。「水素水ビジネス」と「パチンコ」は本質的に同じなのだ。

 

 君は「ウォール街のランダムウォーカー」という投資を始める人と辞める人両方に読まれている本をご存知だろうか。大半の職業投資家の判断能力はサルにボタンを押させるーーつまりランダムな判断とさして変わりがないレベルなのだ。だが掛け金が莫大なので大金持ちの「勝ち組」が存在する。ウォール街はでっかいパチンコ屋なのだ。

 

 

・人は情報を買わない、感情を買う

 

 現代人は服を着たり化粧したりパソコンを操ったりして必死に「文明人」を装っているが、生物学的にはチンパンジーとさして変わらない。彼らはゲーム理論のように論理的判断により動くわけではなく、感情によって動いている。

 

 彼らは「イノベーション」や「科学的根拠に基づいた◯◯」や「何パーセント削減」に金を払っているのではなく、「恐怖」や「損得」や「承認」や「みんなと一緒」や「貴方だけの」に金を払うのだ。数学的な収支がプラスかマイナスかなんて、彼らにとってはどうでもいいのだ。

 

 

・おわりにーー霞を食っているのは仙人よりむしろ俗人

 

 さて、アフィリエイトブログで10億円稼ぐ方法について様々な観点から論じてきた。私から君に伝えたい最後のアドバイスがある。それはこの記事を含め、ネットで書かれているような情報を鵜呑みにせず、しかし全否定はするなということだ。

 

 鵜呑みにした時点で、君はその著者の思う壺になる。しかし全否定してしまうと、君はそのテキストから何も得られないことになってしまう。 自分の理想や幻想を追い求め、「完璧であることを」を追求しすぎると、情報を選り好みして結局何も得られない人間になってしまう。

 

 「リテラシー」とは、テキストとコンテキストから文章の趣旨を理解するという能力だけではない。その文章を書いた人間の思考、歴史的文化的背景、場合によっては著者すら気づいていないことも読み取る技術だ。リテラシーを鍛えるためには良いもの、つまり古典や名文だけを摂取するのではなく、こういう駄文も読み、清濁併せ呑んで免疫をつけることも大事だろう。

 

 さて、君はこの嘘で塗り固められたハウツー記事から何を得られただろうか?

 

「自分は何者にもなれない」と本当に信じているなら今すぐ散歩しろ

 どうやら社会とかいう場所には、自分を「何者にもなれない」と卑下している輩が一定数いるらしい。けしからん!

 

 何?お前自体がそうだと?

 

 

バカヤロー!!!!!!!!!!!!!!

 

 散歩しろ!!!!散歩!!!!

 

 俺は毎日1万歩は散歩しているからか「私はもしかしたら釈迦の生まれ変わりかもしれない」と思うことが1日に5回はあるぞ!!!!

 

 道は無!!

!!!!!!!!!!

 

今すぐ歩け!!!!!!!!クロマニョン人くらい歩け!!!!!!!!!!

 

 

 

目次

・「何者にもなれない」という危機意識を持ってるだけ、他の人より数段マシ。だから歩け!

・そもそも何者ってなんだよ?お前は定義を言えるのか?言えないなら歩け!

・曖昧な幻想を追うな、目の前のパスタと本を愛せ。そして歩け!

・自分の蓄積を愛せない人間は自滅する。したくなけりゃ歩け!

・散歩は最古にして最強のライフハック。とにかく歩け!

・「社会人」「大人」なんて、19歳以下と20歳以上を恣意的に分断するくだらない言葉に過ぎない。それよりも歩け!

・おわりに:人生は「自分は何者にもなれない」と悟ってからが本番。さあ、歩け!

 

 

 

・「何者にもなれない」という危機意識を持ってるだけ、他の人より数段マシ。だから歩け!

 

 そもそも「何者にもなれない」なんて実存哲学的なことで本気で悩む奴はそんなにいない。死ぬ寸前まで追い詰められる奴に至っては天然のタスマニアデビル並みの希少性だ。もし君が何者にもなれない苦しさで今にも死にそうなら、君の自己愛の強さは最早芸術品だ、誇ってもいいだろう。何の役にも立たないが。

 

 インターネットではエコーチェンバー現象によって同じ意見を持つ人間が集まりやすい。その結果「同世代の人間は皆自分と同じ悩みを抱えている」と勘違いしてしまうのだろう。

 

 だが少し周りの世界に目をやれば、存外「何も考えてない人」が多いことに気がつく。無批判に学校に行き学校に通わせる人、無批判にマスメディアの報道を受け入れる人、無批判に快楽と競争を求める人、そして無批判に他人に「お前は何者にもなれない」と言える人……

 

 彼らは「集団の中にいること」しか自分の存在価値が無いと本気で信じている危うい人間だ。 インターネットの匿名性が及ぼす万能感を振り翳して、自分は何もしていないのに何かをしている人を平気で糾弾し、社会を啓蒙している感覚に陥っている只の凡人だ。肉屋を支持する豚だ。

 

 そんな人間の姿は見て、あるいは自分自身がその一員になってることに気がついた貴方は「そろそろ私ヤバイかな?」と無意識のうちに感じていたのだろう。そんな貴方をRescue meできる究極の解決法がある。散歩だ。

 

 

 お前は他の人よりうーんと聡明なの。分かった?分かったら散歩しろ散歩!!!吐くまで歩け!!!靴底がなくなるくらい歩け!!!!!

 

 

・そもそも何者ってなんだよ?お前は定義を言えるのか?言えないなら歩け!

 

 「何者にもなれない」とは、何なのだろうか?

 

 立派な肩書きを持つことだろうか?とりあえず自分一人の力で生きていけるくらいの経済力を得ることだろうか?作家や漫画家のように「何かを生み出す」ことだろうか?

 

 世の中そんな奴は山ほどいる。山ほどいるが、大抵暗い顔をしている。他者から見れば羨ましい立場でも、当事者からすれば当たり前の日常に過ぎないからだ。

 

  結局、私が行き着いた答えは「『自分は誰にも必要とされていない』と自分が感じていること」だった。

 

 なるほど、そう措定すれば「不動産王で年収20億円だが、私は何者にもなれていない」ということもあるだろうし、「僕は小学生だが、何者かになれていない訳ではない」ということもあり得るだろう。他者に言う場合は「『その人は誰かに必要とされている』と自分が判断している」時、人は他者に対し「貴方は何者にもなれていない」というのだろう

 

 だが、こんな定義に一体何の意味があるのだろう?「自分は何者にもなれない」と泣訴する人はたくさんいるし、他者に対して「お前は何者にもなれない」という言葉もたくさん聞く。だが、「私は何者かになっている」とか「君は何者かになっているね!」と肯定的な文脈で使われることはまず無い。 こんな不幸しか生まない言葉を使うこと自体が、そもそも何の役にも立たないのではないだろうか。

 

 

 ね?「何者にもなれない」なんてくだらない概念でしょ?そんな曖昧模糊とした言葉よりもっと現実的に得られる幸福があるよね、それはもちろん散歩だよね。

 

 

・曖昧な幻想を追うな、目の前のパスタと本を愛せ

 

 結局のところ、未来の自分なんて分からないし、「自分は何者かになれるか」などという限りなく勝算の低い賭けに挑む必要性も皆無だ。貴方はどうあがこうが今、そこにいる。仕事がなくなったり退学したり刑務所に入れられた程度ではそうそう死にはしない。

 

 そんなことよりとりあえず今、目の前のものに意識を向けてみないか。これは何も「今を楽しめ」とか「明日のことは考えるな」といった刹那主義者になるための素敵なレクチャーをしているわけではない。

 

 肩の力を抜いて、ちょっとだけマインドフルネスに生きてみないか。換言すれば、曖昧な概念や未知なものへの恐怖を一旦取り外し、目の前の文章や、会話や食事にもっと真摯に挑んでみないかという提案だ。

 

 テレビやスマホという注意をそらせる物から一旦離れて、目の前のパスタを食べることに集中するんだ。プリプリとした噛み応えのデュラムセモリナに、シンプルなオイルソースがうまく乳化されて調和している。塩加減はどうだろうか。量は多いだろうか、少ないだろうか。

 

 マインドフルネスなものの捉え方は「時間」に対しても勿論可能だ。未来に対して漠然とした不安を追うのではなく、明日一日の計画を練ってみるんだ。7時から8時の間に起き、朝食を食べ、3分間歯を磨き……と言った具合で。

 

 そうして一つ一つのことをシングルタスクで片付けて行くと、少しずつ自分の頭の中の「世界」や「時間」の解像度が高くなってくるのを感じないだろうか。そうなればしめたものだ。君は「パスタ」と「明日」について、より確実で経験的な知識を得ることに成功したのだ。そういう解像度の高い目印がたくさん存在すると、脳内世界は整理され、どんどん歩きやすくなる。

 


 ところでパスタを食べたら食後の運動がしたくなるよね。そんな時役に立つのが君の脚だ。10分も歩けば効果てきめん、清原もびっくりのセロトニンパラダイスが君を待っている。

 

 

・自分の蓄積を愛せない人間は自滅する。したくなけりゃ歩け!

 

 私が「アイデンティティの危機に瀕する10代〜20代」について、書籍や当事者のツイート等を読み漁って直感したことがある。

 

 それは「アイデンティティの欠乏は、自分の歴史への軽視から起こる」ことだ。例えば、日本では大学院で博士課程課程まで進んだ人や研究職の方の自殺が非常に多いのだ。

 

 もちろん日本のアカデミズムが未曾有の危機に瀕していて、ポスドクや研究者の待遇が極めて悪いことは私も(当事者ではないから完全にとは言わないが)知っている。

 

 だからといって、自ら命を絶つことはないだろう。貴方には貴方にしかない「蓄積」があるじゃないか。

 

 貴方は自分のことを、「自分と同じ肩書きの他の人」と全く同じ物質だと勘違いしているかもしれない。そして同じ肩書きを持つ周り人々と比べ自分が劣っていたり、その結果肩書きを失ったりすることは死ぬのと同等の苦しみだと考えている。だがそれは違う。貴方の知識や趣味、読書歴や好きなゲームやブランドや恋愛経験、それらを全て内包している存在は貴方だけだ。

 

 貴方は自分では気づいていないかもしれないが、貴方が思っている以上にめちゃめちゃユニークだ。辿ってきた歴史も、今の姿も。そういう自分のユニークな「蓄積」を愛せないうちは、アイデンティティ形成への道など開くはずもない。

 

 私は他人に誇れるような学がないから、大学院生や博士なのに経済状況程度の理由で自分を卑下している人を見ると「バカか!!!!」と頭を叩きたくなる。叩いたついでに小卒くらいにクラスダウンしてくれないかな、とか思う。

 

 私は容姿が良くないから、顔がいい奴が不幸そうな顔をしてるとアンパンマンの要領で自分の顔を投げつけて交換したくなる。交換したついでに生殖器カレーパンマンにならないかな、とか思う。(マジで何も思いつかなかった)

 

 だが私は、そんな私の蓄積を愛している。私は好きな本や映画について何時間でも語れる自信があるし、私の知識は偏っているが故に唯一性が高いと信じている。私の今までの人生は相当ユニークで面白かったと信じている。

 

 これは「未来や自分に対して、不確実な信頼を根拠なしに持て」ということではない。ビジネス書や自己啓発書が言う「とにかく自分の成功を信じろ!イメージすれば全て叶う!」なんてのは嘘八百もいいところだ。ああいった本を100冊読んだって貴方はビルゲイツにはなれないし、北川景子似の彼女や玉木宏似の彼氏は出来ない。私が言いたいのは、社会的に成功しようがしまいが、その成功と失敗の軌跡を愛していればそれでいいんじゃないか、ということだ。

 

 ショーペンハウアーの言葉を借りれば 、「世界」や「社会」など所詮は貴方の脳が生み出す「表象」に過ぎない。貴方が死ねば貴方の表象としての世界は消滅する。貴方の脳と貴方が知覚する世界は一連托生なんだ。だからこそ自分の脳内世界を愛せない限り、世界も貴方を愛してはくれないだろう。

 


 ところで人生における最良の「蓄積」って何だと思う? それはね、「歩数」だよ。僕は1日の終わりに歩数を確認してエクスタシーに達するのが日課なんだ。とっても気持ち悪いね。

 

 

 

・散歩は最古にして最強のライフハック。とにかく歩け!

 

 流石にそろそろ散歩の話をしようと思う。とはいえ散歩の素晴らしさなんてネットで検索すればアホほど転がっているので、やっぱりやめよう。

 

 でもやっぱりちょっとだけ話そう。

 

 我々人類はその700万年もの歴史のうち、699万年以上を狩猟採集民族として暮らしてきた。

 

 狩猟採集社会はきわめてシンプルだ。彼らは10人程度のグループで生活する。普段は僅かな木の実や穀物などを取り、数日に一回狩りをしてタンパク質や動物性脂肪を確保する。定住はせず、場合によっては1日20キロ以上歩くこともある。

 

 こう聞くと過酷な感じがするが、実は違う。「彼らは文明社会で暮らす我々より遥かに幸福だったのではないか」これが私の持論だ。というのも、クソ愚かな文明人と違って彼らは「とどまることの危険性」を本能的に理解しているのだ。

 

 同じところに定住すれば衛生環境が悪くなり、病気になる。同じ場所で食べ物を取り続ければ植物や動物がいなくなり、生態系が破壊される。立ったままや座ったままでは血流が滞り、筋肉も衰える。だからこそヒトは狩猟採集という「移動し続ける仕組み」の中で700万年も生きながらえた。

 

これが「環境が彼らにそうさせた」のか「彼らがそう学んだ」のかは生物学者に解釈を任せるとして、少なくとも言えることは、私たちはそうやって循環型の生活を送っていた生物のDNAを保有しているということだ。

 

 私は根本的に、「社会」とか「責任」とか「幸福」といった概念を信用していない。人間など所詮、少しお利口な哺乳類の一種に過ぎないからだ。その物差しを導入することで我々の生活がより豊かで自由になるのなら信じることも吝かでないが、大半の人間は社会に押しつぶされ、責任を押し付けられ、幸福を感じられず自縄自縛になっているだけだ。

 

 フランスの哲学者ルソーの根本思想に「自然に帰れ」というものがある。これは決して「文明はクソ!自然状態最高!全員今から狩猟採集民になろう!」というものではない。分かりやすく言えば「今更人類は原始社会に逆行することは不可能(滅亡する方がまだ簡単)だし、文明が悪いっつったってそれを作ったのは他でもない人間なんだから、とりあえずその利便性は残したままで自分たちの内的な自然を取り戻そうぜ!」というものである。

 

 今から300年も昔の人物であるが、彼の慧眼は文明社会の欺瞞を見つめ、その上で現実的な解決策、つまり文明と自然の共存方法まで考えていたのだ。とても5人の子供を孤児院の玄関に置き去りにしたクズの思想とは思えないね。

 

 我々は今、これまでに無いほど大きな時代の転換期に立たされている、と錯覚している。実際には、氷河期や革命や戦争など、現在以上に変化が求められ、生存が困難だった時代は山ほど存在する。私たちが本当にすべきなのは、思想や思考の枠組みをファッションのようにコロコロ場面変化に応じて付け替えることだろうか。それとも人間という生物の本来の姿を、忘れそうになるたび再確認することだろうか。この問いに応えようとすれば、君の身体は自然と「歩く」という行為を始めるだろう。

 


 散歩が肉体にとっても精神にとっても良いことは科学的事実なんだ。だから出不精な科学者は全員死後地獄に落ちると「タルムード」にも書いているよ。嘘だよ。

 

 

・「社会人」「大人」なんて、19歳以下と20歳以上を恣意的に分断するくだらない言葉に過ぎない。それよりも歩け!

 

 閑話休題散歩などという世界の本質からすれば至極どうでもいい話は置いといて、今度は私が嫌いな言葉ワースト2「社会人」と「大人」を糾弾していこうと思う。

 いや、いいか。トピックのタイトルでだいたい言いたいことは全部言ってるし。なんかえらい人も「本文は目次の膨大な注釈である」的なこと言ってた気がするし。

 


  既に「社会人」や「大人」になってしまったって? そんな状況でも取り戻せる無垢が一つだけある。散歩だ。スタジオジブリの女の子くらいのテンションで歩けば君の心はあっという間に10歳に若返りするだろう。

 

 

 

・おわりに:人生は「自分は何者にもなれない」と悟ってからが本番。さあ、歩け!

 

 なんであんなことをさせるのか未だにに納得いかないのだが、日本の小学校では先生が児童に「将来の夢」と称して自分がなりたい職業を問うという地獄のようなイベントが1年に7万回くらいある。そんなことやってる暇があるなら、どんな仕事にも価値があることを教えたら?


  分かりきっていることだが、子供の「将来の夢」は十中八九実現しない。

「サッカー選手」「プロ野球選手」なら実現確率はほぼ0に等しく、「数学者」「パティシエ」でもまず不可能だ。

 

 イレギュラーなケースとして、未来に対して非常に現実的な視野を持っている子供が「公務員になりたい」「サラリーマンになりたい」と建設的な夢を抱くことがある。だが残酷なことに、その子が仮に表面上公務員やサラリーマンになれたとしても、本来求めていた「安定」や「所帯」や「楽な労働環境」は手に入らないかもしれない。夢とはそれくらい儚いのだ。

 

 私の場合は夢が「医者」だった。何かの間違いで名門校に入学できたまでは良かったが、呼吸するように勉強する級友たちの姿を見て諦めることにした。

 

 そこは凡俗な自分にとってはあまりに純粋な世界で、全てにおいて「全力を持って追求する姿」しか存在しなかった。勉強、サボり、趣味、部活動、読書、ゲーム……何をするにおいても彼らは完璧に、隅々まで楽しみ尽くしていた。「自由」を標榜していた学校で、制服や厳しい校則はなかったのだが、その暗流には常にエリート的な美しく厳しい空気が漂っていた。

 

 何事にも精力的に打ち込んだ級友たちとは裏腹に、私はあらゆる世界を知ろうとして、結局どの世界も本当に知ることはかった(「あらゆる」を漢字で書くと「凡」という字が出てくるのはなんという皮肉だろうか)。今でも自分の人生設計の甘さを後悔する。最早私は「立派な大人」には逆立ちしたってなれない。

 

 だが立派な大人への道が断たれて初めて得られたものもあった。上手いパスタの作りかた、散歩の楽しさ、難解な本の小狡い読み方……どれも「医者になって全てを手に入れた私」からすれば取るに足りない、つまらないと感じるものばかりだろう。何も持たず、何も出来ず、誰からも必要とされていないはずなのに、やけにそんな自分が心地いいのだ。

 


 暇つぶしにもならない記事をここまで読んでくれた貴方に言いたいことがある。まずは読んでくれてありがとう。そして、こんな名も知れない奴が書いた、ネットの海の漂流物に目を通すくらいだから、おそらく貴方は大なり小なり今人生の苦境に立たされているのだろう。

 

 立派な大人になるかどうかなんてわからない。


 夢が叶うかどうかなんてわからない。


 今逃げたら全てが泡沫に帰すかもしれないし、だからといってがむしゃらに頑張っても何の見返りも得られないかもしれない。


 でも一つだけ言えることがある。貴方は今まで生きてきたじゃないか。この矛盾だらけのクソみたいな世界で、貴方は生き抜く術を独自に編み出して、今日まで生き長らえてきたじゃないか。


 その方法は世間一般的に見れば「逃げている」とか「現実から目を背けている」と映るかもしれない。精神医学的には「防衛機制」と定義されるのだろう。


 だが現に貴方は生きている。それは凄まじいことだ。奇跡的な強さだ。私には貴方の置かれている環境も、つらさも、分かってあげることができない。ただ貴方が今生きていることを祝福することしかできない。

 

 私はありとあらゆる集団的な存在(右翼、左翼、中道、社会、会社、国、学校、ネットのアノニムなコメント達、etc……)を嫌っているし、それと同じくらい個人である貴方を愛している。オルテガの言う「大衆」になることを恐れながらも、生きるには集団に属するしかないと日々葛藤している貴方を愛している。

 

 私には貴方の考えていることが手に取るように分かる。なぜなら文章とはは貴方の鏡だからだ。私の望む望まないに関わらず、貴方はこの文章を貴方の解釈で自由に読み取る。それでいいんだ。

 


 さあ、湿っぽい話はやめて散歩に出かけよう。靴紐は結んだ?トイレは済ませた?お気に入りの音楽はプレイリストに入ってる?

 

 これは散歩上級者の僕からの忠告ーー平日の昼間や深夜に散歩するなら、職質された時のシミュレーションは万全に。

 

 


追伸)こうやって最終的に「感動」で締めちゃう自分に一抹の「島田紳助」を覚えて非常にアンニュイな気分です。気晴らしに散歩しに行きます。

より良いカルボナーラを作るために留意したい10の事項

 日本人が本場のカルボナーラを再現するためには途方も無い労力がかかる。今回は1おくまんちょうドル円個という膨大な量のカルボナーラレシピを精読し、2週間に1回は全日本カルボナーラコンテストで優勝している筆者が微力ながらアドバイスをしようと思う。

 

目次

・シェフでもないのにシェフの真似をするな

・オリジナルも作れないのにオリジナル性を出そうとするな

・材料の重さは小数点以下第一位まで測れ

・茹で汁の塩は親を殺すつもりで入れろ

・卵は思春期のチンコくらいすぐ固くなる

・生クリームを入れるか入れないかは両方試して自分で判断しろ

・迷ったら料理人より科学者を信じろ

・余熱調理に憧れる気持ちは分かるが、余熱を自在に操れるような料理玄人はそもそもカルボナーラの作り方程度で料理本を開かない

・グアンチャーレやパンチェッタが手に入らないからってメソメソするな。どうせ目隠しして食えば鶏肉と豚肉の違いも分かりはしない

カルボナーラの出来不出来に関わらず、やがてお前は広い宇宙の中でただ死ぬ

 

・シェフでもないのにシェフの真似をするな

 「シェフの真似をすればいい料理が作れる」これは料理が好きなのに料理が下手な人間に一番多い勘違いだ。

 一般に、卓越した職業調理師は材料を目分量で測り、二つ以上の作業を同時進行し、淡々と目の前の混沌(カオス)を処理して料理という秩序へと収斂させてゆく。その姿はさながらレオナルド・ダ・ヴィンチ堀江貴文が憑依したかのようであり、多くの調理初心者は魔術のような手際の良さに目を奪われる。

 しかしそれは長年における研究と実践の蓄積からくる必然であり、我々のような素人がその軌跡をなぞったところで同じような結果が得られる訳ではない。画家と同じように手を動かしても絵が描けないのと同じだ。まずは大まかな調理の流れを理解し、一つ一つの作業を丁寧に実行するしかない。

 

・オリジナルも作れないのにオリジナル性を出そうとするな

 自分で証明できない定理を使う高校生、原典を読んでいない癖に独自の解釈を盛り込む大学生、4分間の漫才も作ったことがないのにシュールネタに走るコンビ……

 結果を出すことが何より優先される資本主義社会において、さしあたりの解決策としてそのような手段を用いるのは大いにありだろう。しかし姑息な方法で段階を踏まず結果のみを求めたところで、後々苦しむのは自分である。

 より「正しい」カルボナーラを作りたいのであれば、まずはイタリア語で書かれたレシピか、せめて「カルボナーラ イタリア レシピ」「カルボナーラ 歴史」"Authentic Italian Spaghetti Carbonara"等のキーワードで検索すべきだ。

 

・材料の重さは小数点以下第一位まで測れ

 「だって平野レミは軽量せず適当に入れてるじゃん」と言いたくなるかもしれない。だが安心してほしい、貴方は平野レミではない。凡庸で経験もない人間は「つまみ」や「適量」という感覚的表現を出来るだけ廃し、トライ&エラーで少しずつ理想のカルボナーラに近づけていくしかない。

 

・茹で汁の塩は親を殺すつもりで入れろ

 パスタを茹でる際、お湯に塩を入れる理由には大きく分けて二つある。一つは「デンプンの糊化を適度に抑制し、つるつるぷりぷりの食感にすること」もう一つは「パスタに塩味をつけておくこと」である。「沸点を上げるため」とも言われているが、1〜2%程度の食塩では沸点はそこまで変わらない。

 パスタはうどんやラーメンと違い、麺自体に塩が含有されている訳ではない。そのため、ふにゃふにゃで味のない麺にならないためにも茹でるお湯には相応量の塩を入れる必要がある。勿論、「適量」ではなく貴方が試行錯誤の末見つけた最適な量を。

 また、日本の水は軟水だがヨーロッパ圏のほとんどでは硬水が流れている。硬水に含まれるミネラルは塩化ナトリウム同様パスタを美味しく仕上げるようになっているため、軟水で作る際はイタリアでのレシピより多めに塩を入れる必要があるだろう。もしくは地下に10000キロくらいの水道管を掘って現地の硬水を手に入れよう。

 

・卵は思春期のチンコくらいすぐ固くなる

 卵の成分の多くはタンパク質である。タンパク質に熱を加えると凝固(熱変性)することは有機化学を齧っているか風呂でマスターベーションしたことのある男子諸君なら知っているだろう。

 具体的には、白身は55度を過ぎた頃から固まり始めるが完全に固まるのは80度前後である。それに対し黄身は凝固し始める温度は65〜70度だが、その温度を維持すると完全に固まってしまう。このことから、黄身が固まらないカルボナーラを作るためには次の方法が考えられる。

・黄身だけで作るのではなく、白身を混ぜておく

・パスタと混ぜる時間を出来るだけ短くし、早くかき混ぜる

・事前にパスタの温度を少し下げておく

・生クリームを混ぜる

 そう、ここでいよいよ登場するのがカルボナーラを語る際必ず槍玉に挙げられる「生クリーム」である。パスタの本場イタリアでは基本的にパスタに生クリームを入れない。しかしながら店によっては卵が固まるのを防ぐために生クリームを入れることもあるようだ。

 日本においては「生クリーム入れる派」と「生クリーム入れない派」がおよそ50年以上にわたり壮絶な内戦状態にある。過去には入れない派が統治する市町村で生クリームを入れた家族が3世帯まるごと処刑されるという生々しい事件も発生した。しかし10年前に制定された「生クリーム入れようが入れまいがどっちでもいいでしょ法」により国民の思想信条の自由は守られた。

  ではこの究極の難問「カルボナーラに生クリームを入れるべきか否か」にどう立ち向かえばいいだろうか。

 

・生クリームを入れるか入れないかは両方試して自分で判断しろ

 以上。

 

・迷ったら料理人より科学者を信じろ

 先程は洗練された技術を持つ料理人を褒めちぎったが、所詮奴らなど自分の経験でしかものを話せない小卒のクズである。サンプル数1での結果を拡大解釈するような輩の言うことより、バイアスに左右されない科学的データを信じよう。

 

・余熱調理に憧れる気持ちは分かるが、余熱を自在に操れるような料理玄人はそもそもカルボナーラの作り方程度で料理本を開かない

 トピックのタイトルを長くしすぎると書く内容が無くなるという好例である。

 

・グアンチャーレやパンチェッタが手に入らないからってメソメソするな。どうせ目隠しして食えば鶏肉と豚肉の違いも分かりはしない

 上に同じ。

 

カルボナーラの出来不出来に関わらず、やがてお前は広い宇宙の中でただ死ぬ

 ここまで長々と文章を綴ってきたが、こんなものを読んでカルボナーラを作ったところで私も貴方も100年もすれば死んでしまう。その絶対的事実の前にはパスタの美味い不味いなど無意味で、我々が日頃抱いている煩悩や情念や執着もとどのつまりは宇宙の塵芥に過ぎない。深く考えず、思うがままフライパンをゆすり、食欲に従うまま貪る。それでいいと思う。

 

以上。これを読んだ諸君が今後少しでも昨日より美味しいカルボナーラが作れるようになれれば幸いだ。

人生に閉塞感を覚えたら古典を読もう

 「古典」と聞くと、みなさんどんなイメージをお持ちでしょうか。

 

 難解で複雑?

 古臭い考え方の人が書いた古臭い本?

 学校で無理やり勉強させられるよくわからない文章?

 

 そのように思われる方が多いでしょう。

 しかし、実際の古典は、書店で平積みされているビジネス書や自己啓発本なんかよりずっと人生に役立つ、人類の叡智の結晶です。

 なぜ古典が素晴らしいのか?僕なりに考えたその理由を2点挙げさせていただきます。

 

 

1:古典は名著しかない

 いきなり論理が全盛期の池谷直樹並みに飛躍しているような気がしますが、これは紛れも無い事実です。

 現在も読まれている古典というものは、全て時代の変化による淘汰を経てもなお残った作品ばかりです。

 1000年、2000年も前に書かれたにもかかわらず、それらの作品は現在においても輝きを失っていない本物の名著です。

 確かに、現代の本でも名著と呼ぶにふさわしい優れた作品は多々あります。しかしそのうち、一体何冊が100年後でもなお多くの人間に読まれているでしょうか?

 今の名著と、古典の名著はその「名著度」が段違いなのです。

 

 

2:古典は簡単に手に入る

 古いものは価値がある。これは何も書物にかかわらず、美術品やジーンズでも同じです。

 もっとも、それらと古典の間には大きな違いがあります。

 それは「手に入れやすさ」です。

 アンティークの美術品やヴィンテージジーンズなどは、どれもその希少価値ゆえに大変高価です。

 しかし、古典はそこいらの本屋で安価で買うことができます。

 「論語」も「徒然草」も「ツァラトゥストラかく語りき」も、ジュンク堂の文庫コーナーに行けば1000円以下で手に入ります。図書館に行けば、その買い物すら不要です。

 また、「青空文庫」というサイトに行けば、著作権が切れた作品を無料で閲覧することができます。

 

 

 どうです?古典を読みたくなってきませんか?いま自分の人生に行き詰まりを感じている人は、目につくタイトルの本(「5秒で◯◯できる本」「成功できる◯◯の法則」等)に近視眼的に飛びつく前に、偉大な先人が残してくれた遺産を読んでみてはいかがでしょうか。