そばつゆ一気飲みブログ

ほとんど何も知らないです。

若者の国語力が低いって言うけど、そもそも国語力って何なのさ?

人は、国に住むのではない。国語に住むのだ。ーーエミール・シオラン

 


 近年、若い世代の国語力の低さが問題視されている。

 

 特にそれが顕在化されるのが「セルロース問題」という奴で、これは元々AI研究において「AIが日本語の文章を理解できているか」を判別するために作られた問題だ。


「アミラーゼという酵素グルコースがつながってできたデンプンを分解するが、同じグルコースからできていても、形が違うセルロースは分解できない」

このとき、セルロースは( )と形が違う。

A. デンプン

B. アミラーゼ

C. グルコース

D. 酵素

 

 冗長な文章だが破綻はしていなので、ちゃんと読もうとすればちゃんと読める。勿論この問題を解くのに「化学の知識」なんて一切不要だ。答えはAだが、結構多くの人間が間違えるらしい。


 貴方がこの問題の正解率を見て、日本の若者の読解力の低さを憂うのは勝手だ。しかしそれでは何の解決にもならない。そのような「読解力がなくても大人になれる」というシステムを作ったのは他でもない親世代の人間達だからだ。このまま放置すれば今の世代がまた非合理的な教育システムを作り、子を育てるようになる。


 とはいえ、今更日本の全体教育が国語に関してできることはあまり残されていない。ほぼ全ての国民は9年間の義務教育でうんざりするほど国語教育を受けるし、識字率も明治時代からほぼ100%のままである。日本に住んでいると勘違いしがちだが、国民の識字率が95%を切っている国はけっこうある。シンガポールでも94%程度だ。


 思うに、国語力の低下といっても日常生活に支障をきたすほどではないが、「表面上日常生活に支障をきたさないからこそ、場面場面で支障をきたしている」という状況になるのだろう。    


 そしてこの問題は無自覚な人間であれば、若者に限らずどんな世代でも起こりうる。いやむしろ「自分はリテラシーがある」と理由もなく過信している大人の人達ほど怪しいのではないだろうか(ダニング=クルーガー効果)。


 私は自分のリテラシーが高いとは思わない。だが大人たちはこの問題をただ問題にするばかりで、自分から建設的な提案はせず煙に巻いている。なので私はこの問題に対して「原因」「公理」「定義、定理」の3つのチャプターに分け、アホなりに少しは建設的な解決策を講じてみる。


 「原因編」では特に21世紀以降の日本人にフォーカスを当て、この問題の根本原因を解き明かして行く。

 

 「公理編」では、議論の前提条件を設定するため、「そもそも言語とは何か」「論理とは何か」を考えてみる。

 

「定義、定理編」では、公理を土台に議論を展開する。

 これは論文じゃなくてあくまでエッセーだ。厳密に論理を進めたりはしないので、肩の力を抜いて読んでほしい。

 

 

 

目次

原因編

・ガジェットに頼る現代人

・日本人の「曖昧病」

公理編

・言語に絶対的真理は存在しない

・あるのは共通理解だけ

定義・定理編

・マクロからミクロへ、抽象から具体へ

・対比と論理の鎖

・言い換え表現の豊富さが文章の巧拙を分ける

・日本語の文章に多い「逆茂木型」

・設計図を書くことの重要性

・実践とフィードバックが何よりも重要

おわりにーー基本を知れば、応用が利く

 

 

原因編

 

・道具に頼る現代人

 

 農耕の開始以後の人間の歴史は、道具の歴史といってもいい。武器や農耕具から始まり、現在ではテレビや車やスマートフォン。技術を進歩させることで困難を乗り越え、繁栄していった。

 

 しかし便利な道具が増えることは、同時に人間本来の能力を失うということでもある。服や靴で身体を覆った結果免疫力が落ち、検索すれば情報が手に入るから記憶力が落ち、ワープロがあるから漢字が書けなくなる。自分の身体で対処する必要性がなくなったのだから、当然の変容だ。

 

 言語においても、外付けの媒体に依存したせいで能力が落ちたと考えられる。今までにないくらい網羅的な辞書が目の前にあるのだから、語彙力はそりゃ低下する。次に書くべき言葉は予測変換機能が大体教えてくれるし、そもそも1から全部書かなくても何処かからコピペしてバレないように一部を編集すればいい。技術に頼ることは、貴方自身の能力の退化とトレードオフなのだ。

 

 

 ・日本人の「曖昧病」

 

 現代人の国語力が落ちる原理はわかった。では日本人に限ればどうだろう。

 

 私は日本において国語力が低い人間が多い理由は、日本特有の「曖昧病」にあると考える。

 

 日本人は特定の概念に対して定義を曖昧にしたがる傾向にある(この文自体がめちゃくちゃ曖昧だ)。結果、その概念に対する理解や習熟が遅れる。「寿司屋の修行」「浮世絵」「国語力」等々……挙げ句の果てには「粋」などという訳の分からない物差しを当てがって、物事の良し悪しを判別しようとする。

 

 学習に対しても、体系的網羅的に学ぶのではなく「まず強くぶつかって、後は流れで」な経験的学習をやらせる傾向にある。「センス」「筋がいい」という言葉を多用するのも、この傾向による。国語に対しても、「たくさん本を読め」とか「読解力が無い奴は一定数いるからどうしようもない」程度のことしか語れない。

 

 もちろん真剣に国語と向き合った結果、そういった答えに行き着くかもしれない。でも大抵の場合はまともに考えたり調べたことがない。故にその結論になった理由を筋道立てて説明できない。これは読解力がある人にもない人にも共通する習性だ。

 

 自分なりに筋道立てて話した結果、それが間違っていても別に構わない。そう言ってもとにかく説明したがらない。「センス」「遺伝」「環境」「読書歴」こういう定量化が難しい単語を持ち出して煙に巻こうとするのだ。

 

 私は説明する。間違っているかも知れないが説明してみる。

 

  100年ほど前、日本に嘉納治五郎という男がいた。当時東京帝大で物理を学んでいた彼は、身体を鍛えるために柔術道場の門を叩いた。

 

 しかし道場では「これはよくない」「こうしなさい」という指導はなく、ただ治五郎は無言の師匠に投げられるだけだった。「身体で覚えろ」というやつだ。

 

 毎日ボロ雑巾のように畳に投げつけられるだけの訓練。無意味さを悟った碩学の徒は力学の知識を活かし、体得的な柔術を体系的な「学問」として止揚させた。これが柔道の始まりだった。

 

 

公理編

 

・言語に絶対的真理は存在しない

 

 言語について語るときの大前提として「言語に絶対的真理は存在しない」ことだけは公理として共有させて欲しい。

 

 なぜ言語に絶対的な基準やルールが存在しないのかというと、言語は自然に生まれたものだからだ。言語が生まれた時、そこには「論理」や「国語力」なんていうひな形はなかった。ただ互いとコミュニケーションを取る手段として、数種類の単語を使い始めたのが言語の始まりだ。

 

・あるのは共通理解だけ

 

 では論理とは何のためにあるのか。有り体に言えばそれは「共通理解」だ。

 

 まず互いにここは確かだよね、という原理(排中律同一律等)を設定する。そしてその原理から定理(三段論法、ド=モルガンの法則、不完全性定理等)を導き出す。こうして得られた定理からまた論を進め……という具合である。

 

 論理が言語に対して持つ価値は、物理法則が自然現象に対して持つ価値に近い。つまり、自然のカオスな振る舞いをある程度の精度で予測するのが物理法則で、言語のカオスな振る舞いをある程度の精度で予測するのが論理なのだ。ぴったり当てなくてもいいから、求めたい精度の中で答えが得られればそれでいいのだ。

 

 相対性理論量子力学が台頭したことによって、古典力学はその存在意義を無くしたと思われがちだが、実はそうではない。古典力学は極めて単純な数式だけで、大体の自然現象についてそれなりの精度で予測を立てることができる。古典力学くらいの精度の予測を、古典力学以上のシンプルな原理設定で導き出せる理論が登場しない限り、古典力学の価値は失われない。

 

 だからこそ言語も、「真の答えなどない」と認識しながらも、ある程度の精度で良い文章が書け、ある程度の精度で難しい文章を読めるルールを知っておくと便利だ。

 

 狭義での論理学は、扱う内容が限定的すぎて自然言語の振る舞いに対してはそこまで便利じゃない。なのでもうすこし国語をマクロで捉えられるようなルールを設定したい。

 

 

定義・定理編

 

・マクロからミクロへ、抽象から具体へ

 

 まず第1のルールは「マクロからミクロへ、抽象から具体へ」というプロセスだ。これは読み書き両方に共通する最も重要な考え方だ。

 

 全体を俯瞰で眺め、そこを流れる一本のロジックやテーマ性を理解することが先決だ。どうしても枝葉末節の部分に目が写りがちだが、そういった細部の要素は一旦無視したほうがいい。

 

 読みの場合、俯瞰でまずは全体を眺め、そこから少しずつ細部へと目を移す。本を読むなら「(前提となる知識)→タイトル→目次→本文」という順だ。パラグラフ(段落)は1行目(トピックセンテンス)で主張が書かれ、その後のサブセンテンスで補足事項が列挙される。

 

 小中学校で習った「対比、並列、問題提起に注目しろ」というのはこのことを言っていたのだ。言葉を補足すれば「文章全体を貫く対比構造や、パラグラフの並列関係や、著者が読者に問題提起したいこととそれに対する著者の考えるに注目しろ」だ。

 

 次はライティングについてだ。文章を書く場合、いきなり1行目から書くと大抵失敗する。思わぬ部分が膨れ上がったり、途中で横道に逸れたりしてしまうのだ。

 

 勿論、1から書いてうまく行く事もあるだろうが、それは練達した絵描きが下書きなしで描けるのと同じ理屈だ。全体像が常に掴めているから一部が異様に肥大化したりバランスが崩れたりせずに描けるのであって、私たちのような経験値の足りない人間のやることではない。

 

 まずはタイトル=メインメッセージを決める。そこからマクロな設計図を練る。目次や見出し文を決め、ようやく本文を書く。

 

 本文は膨大なパラグラフで構成されるが、そのパラグラフも「抽象→具体」で著述されていることが望ましい。1つの段落に1つのメッセージ。2文目以降は1文目の補足と考え、具体的な説明や例を書くだけに止めよう。

 

 

・論理の鎖

  第2ルールは「論理の鎖」だ。論理の鎖とは、AならばB、BならばCという論理的な流れのことだ。マクロとミクロの切り替えが重要度に応じて階層を切り替えることなら、論理の鎖は同じ階層のコンテンツを理路整然と並べる技術だ。

 

 これをしっかり把握しておかないと、マクロとミクロの切り替えができていても相手にとって読みやすい文章にはならない。目次の第1トピックが「一夜漬けでやればなんとかなる」で第2トピックが「1週間前から準備しよう」なら、その本のAmazonレビューは間違いなく1点止まりだろう。

 

 日本人は奥ゆかしい性格からか、多くを語らず論理の鎖を無視した文章を書きがちである。しかし分かりやすい文章を書くならこれは致命傷だ。読み手のことを考えた文章を書きたいなら、多少くどくても論理の鎖を出来るだけ網羅しよう。

 

・言い換え表現の豊富さが文章の巧拙を分ける

 

 第3ルールは「言い換え」だ。

 

 全く同じ表現が延々と続くと、読み手は退屈に感じる。そして書き手がバカに見えてくる。他人にバカに思われたくないことだけを考えて生きている諸君は、「兎に角言い換えろ!」という書を額縁に飾るべきだ。

 

 言い換え表現という考え方は、読む際にも有用だ。一見すると晦渋でねちっこい文章に見えても、よく読むと同じことをずっと言い換えていたなんてザラだ。そう考えると未知の単語が出てきたときの恐怖心も少し和らぐだろう。

 

 

・日本語の文章に多い「逆茂木型」

 

 「理科系の作文技術」という本では、日本語の分かりにくい文章の典型として「逆茂木型」を挙げている。枝葉末節の話題から始まり、幹に達するとまた別の細かい話題に移り、最後にすべての論点が纏まり結論に辿り着くような文章のことだ。

 

 王道アニメなら最終回で今まで登場したキャラクターが全員集合し、感動のフィナーレを迎えることだろう。しかし論文やレポートでこんなことをやったら感動のフィナーレどころか留年というバッドエンドが待っている。

 

 先程の3つのルールに照らし合わせてみよう。逆茂木型の文章とはマクロの階層とミクロの階層の切り替えが雑で、論理の鎖も曖昧な文章ということになる。

 

 これは日本人特有の文化でもあるので、必ずしも茂木型の文章が好ましくて逆茂木型で書いてはならないというわけではない(論文を書く場合を除く)。しかし「日本人はこのように書く傾向がある」と知っておくことはいつか役に立つはずだ。

 

 

・実践とフィードバックが何よりも重要

 

 色々と理屈っぽいことを述べてきたが、言語スキルはなんやかんやで経験がものを言うので実践が一番大事だ。

 

 しかしただ本を読み漁り、自由気ままに綴るだけではこのスキルは身につかない。前述のようなルールや基準を設け、しっかりとフィードバックすることが大切だ。テストを受けたり、読書日記をつけたり、書いた文章を読み直してもう一度書き直す。そういう実践と経験の積み重ねとして得られるのが国語力という技術だ。

 

 

 おわりにーー基本を知れば、応用が利く

 

 言語というものはこの程度では到底説明できないくらいには奥が深いことは、日本一傲慢な私でも流石に承知している。

 

 だが一つ言えるのは、こういう基本的なものの考え方が身についていないのに夏目漱石志賀直哉のような美しい文章を飛び級して書こうとするのは愚行だということだ。

 

 

 

 

1円もアフィリエイトで儲けていないが、アフィリエイトで10億儲ける方法を考えてみた

  私は狂っているので、何も成功していないがあらゆる分野における成功の法則をいくらでも書くことができる。以下にアフィリエイトで10億稼ぐための方法を捏造したので、これを読んで君も是非アフィリエイトで10億稼いでほしい。

 

 

目次

・嘘をつけ

・「極力嘘をつく」とかのレベルを超えて100%嘘をつけ

・誠実さを捨てろ

・読者との距離を近づけろ

・丁寧に引用するくらいならパクれ

・具体的な数字があるなら具体的な数字を書くな

・「最低限守るべきルール」や「成功の法則」は完全に無視しろ

ブルーオーシャンを探すな

先行者利益を狙うな

・1人の賢者より99人のバカを相手にしろ

・人は情報を買わない、感情を買う

・おわりにーー霞を食っているのは仙人よりむしろ俗人

 

 

・嘘をつけ

 

 成功しているアフィリエイトブログの最大の特徴は「嘘をついている」ことだ。

 

 社会的スキルというのはとどのつまり「どれだけ自信満々にハッタリをかませるか」に集約される。君は何か有益な情報を読者と共有しようと思ってはいけない。「りんごを食べれば幸せになれる」と信じているなら「りんごを食べていると幸せになれない」と書かなければならない。

 

 ここで気をつけたいのは、「りんごを食べなければ幸せになれる」という書き方をしてはならないということだ。人間の感情で最も強いのは恐怖だ。それも、「他の人に置いていかれるかもしれない」という疎外感からくる恐怖は、人間の遺伝子に刷り込まれた誤魔化しきれない感情だ。君はそこを刺激してやるだけでいい。あとは中身なんてどうでもいい。「本を読むな」でも「モンゴル人力士を応援するな」でも「深海に想いを馳せるな」でも構わない。

 

・「極力嘘をつく」とかのレベルを超えて100%嘘をつけ

 

 とはいえ、嘘のつき方にもそれなりの作法が存在する。それは「ホラを吹くなら貫き通せ」ということだ。

 現代人は未完成なもの、瑕疵があるものを異様に嫌う傾向にある。目だけは肥えた衆愚たちは、減点法で作品や人間を採点する。

 しかし彼らは脳みその容量が5ccしかないシーモンキーなので、長所も歴史的背景も裏事情も全く察知しない。だから完成されてさえいれば、パッケージ化にこぎつければ中身は素数を羅列しただけでも構わない。

 

 なにせ、今は学者が50年かけた研究の結晶より、月1で発売されるエセ学者の日本ヤバイ/スゴイ本の方が売れる時代なのだ。ああいう本を買い漁る読者たちは、皆自分はフェルマーダヴィンチのような独学者だと信じ切っているが、普通に芯も基礎教養もないので「本として完成されているか」しか物差しがない。

 

 

・誠実さを捨てろ

 

 しかしながらそこまで大掛かりな虚構の城を築きあげることは、大抵の人間にとっては至難の技である。多くの場合「良心の呵責」というやつが邪魔をする

 

 一度しか言わないからよく聞きなさい。 そんなモラルは無視しなさい。それは進化した猿程度の存在の手に負える観念ではない。

 

 それでも根っからの優しさや共感性が邪魔をする場合、「人格を変えてしまう」という手段がある。

 

 嘘の城を本当の城だと本気で信じる。自分の信念や中身から、その嘘を信じきるのだ。やがてその虚は実となるだろう。

 

 「読んでいない本について堂々と語る方法」という本がある。著者はベルギーの哲学者ピエールバイヤールで、タイトルの通り読んでいない本について堂々と語る方法を15のステップに分けて記述している。読んでみると良いだろう。

 

 

・読者との距離を近づけろ

 

 ここからは具体的な虚偽の城の建設方法に移っていこう。

 

 まず重要なのは記事のタイトルだ。メッセージは読者の本能に訴えかけるようなものが好ましい。

「ニキビを治す最高の方法は病院に行くことです」というのは少し不十分だ。「ニキビが嫌で外に出れない?じゃあ病院行こうぜ!」こちらの方が好ましい。

 

 本文についてもただ事実を述べるのではなく、語りかけるような文体にすべきだ。人間の脳は想像以上にアホなので、勝手に「この人は自分の問題に親身になってくれている」という錯覚に陥る。

 

 自分の体験談を語ることも親近感を誘うための重要なファクターだ。どうせ本当かどうかを確かめる手段はないので、いくらでも捏造すればいい。

 

 

・丁寧に引用するくらいならパクれ

 

 引用は論文や「ちゃんとした本」を書く際には絶対に必要だが、ブログや「騙すための本」を書く際には逆にマイナスになる。「この人は引用ばかりして、自分の主張に自信がないんじゃないか」という印象を相手に与えてしまうからだ。

 

 勿論「こんな科学的根拠がある!」「あの偉人もこう言っている」と虎の威を狩ることも重要だが、あくまで「自分の持論」という幻想を軸にストーリーを展開すべきだ。

 

 なので、自分がその記事で一番伝えたい論旨はパクリでもいいから「これが俺の考えだ」と宣言し、そこからその主張を支持する事実を列挙するのが望ましい。

 

 

・具体的な数字があるなら具体的な数字を書くな

 

「三つの法則で人生が変わる」

胃もたれが酷くて、居酒屋で唐揚げも食べられない……そんな時にはこの薬」

 このように、コピーライティングには具体的な数字や状況をつけることが鉄則だ。

 

 しかし具体的な数字を書くべきではない場面もある。それは具体的な数字が存在するものについて記述する時だ。なぜならば、その数字が間違っていた場合はデータオタク達によって重箱の隅をつつくような攻撃を受けることになるからだ。

「国民の10000人に1人が、自殺しているという事実」→「実際には10万人あたり15人前後ですよ?1.5人と書くべきでは?」

 

 こういういちゃもんを防ぐためにも、具体的な記述は本当に確かなものか真偽の判断が困難なものに限るべきだ。

 

 

・「最低限守るべきルール」や「成功の法則」は完全に無視しろ

 

 アフィリエイトで一発儲けようとする愚かな連中に一番多い失敗が、「成功の法則」や「最低限守るべきルール」を全て満たせば成功できると勘違いしていることだ。

 

 ちょっと調べれば分かる程度の成功の法則なんてのは、ほぼ全ての「稼ぎたいブロガー」が実践している。結果似たような情報や見た目の記事が乱立し、収入は低空飛行のままだ。誰からも好かれようとして、結果誰にも興味を持たれない好例と言えるだろう。

 

 

 ・ブルーオーシャンを探すな

 

 凡庸は稚拙より遥かに嫌われる。だからといって「自分にしかない情報」や「自分だからこそできること」にフォーカスを当てようとするのも下策だ。

 

 これは経営戦略論で「ブルーオーシャン戦略」と呼ばれるものに当たる。競争の激しい市場「レッドオーシャン」ではなく、既存の概念に付加価値をつけたりすることで未開拓な「ブルーオーシャン」を切り開き、そこで1位を目指そうというものだ。

 

 だが実際には、誰も競争に参加しない市場=何の需要もない市場だ。人間は腐るほどたくさんいるから、需要さえあれば人はそこに群がる。競争が一番激しい分野が、一番パイの大きな分野だ。

 

 重要なのはブルーオーシャンを探したり作るのではなく、一番需要の高い市場で差別化を図り、その差別化を悟られないという技術だ。

 

 「正々堂々戦ってまっせ」と騙りながら邪道の戦略をとるのだ。天保山を真面目に登るのではなく、エベレストの山頂までヘリで行き、「エベレスト単独登頂しました!」と高らかに叫ぶのだ。

 

先行者利益を狙うな

 

ブルーオーシャン」と並んでプチ起業家量産ビジネスでまことしやかに語られるのが「先行者利益」だ。

 

 勿論他の競争者が誰も居ない時には甘い蜜を吸えるだろう。だが需要が増えていった頃には、成功の理由を分析した後発者たちがその増えたパイを掻っ攫っていってしまう。消費者からすれば「パイオニアかどうか」なんてどうでもいい話で、より便利で気持ちのいい方を選ぶ。

 

 先行者利益などという突発的幸運を狙うのは、宝くじを買うことと本質的には変わらない。それよりも確実な「研究と実践」の道を選ぶべきだ。

 

 

・1人の賢者より99人のバカを相手にしろ

 

 これはもう言うまでもない、単純な数字の比較だ。金持ちかどうかもわからない賢者1人をパトロンにつけるより、老若男女上流層下流層問わず存在する99人のバカを相手に商売すべきだ。「水素水ビジネス」と「パチンコ」は本質的に同じなのだ。

 

 君は「ウォール街のランダムウォーカー」という投資を始める人と辞める人両方に読まれている本をご存知だろうか。大半の職業投資家の判断能力はサルにボタンを押させるーーつまりランダムな判断とさして変わりがないレベルなのだ。だが掛け金が莫大なので大金持ちの「勝ち組」が存在する。ウォール街はでっかいパチンコ屋なのだ。

 

 

・人は情報を買わない、感情を買う

 

 現代人は服を着たり化粧したりパソコンを操ったりして必死に「文明人」を装っているが、生物学的にはチンパンジーとさして変わらない。彼らはゲーム理論のように論理的判断により動くわけではなく、感情によって動いている。

 

 彼らは「イノベーション」や「科学的根拠に基づいた◯◯」や「何パーセント削減」に金を払っているのではなく、「恐怖」や「損得」や「承認」や「みんなと一緒」や「貴方だけの」に金を払うのだ。数学的な収支がプラスかマイナスかなんて、彼らにとってはどうでもいいのだ。

 

 

・おわりにーー霞を食っているのは仙人よりむしろ俗人

 

 さて、アフィリエイトブログで10億円稼ぐ方法について様々な観点から論じてきた。私から君に伝えたい最後のアドバイスがある。それはこの記事を含め、ネットで書かれているような情報を鵜呑みにせず、しかし全否定はするなということだ。

 

 鵜呑みにした時点で、君はその著者の思う壺になる。しかし全否定してしまうと、君はそのテキストから何も得られないことになってしまう。 自分の理想や幻想を追い求め、「完璧であることを」を追求しすぎると、情報を選り好みして結局何も得られない人間になってしまう。

 

 「リテラシー」とは、テキストとコンテキストから文章の趣旨を理解するという能力だけではない。その文章を書いた人間の思考、歴史的文化的背景、場合によっては著者すら気づいていないことも読み取る技術だ。リテラシーを鍛えるためには良いもの、つまり古典や名文だけを摂取するのではなく、こういう駄文も読み、清濁併せ呑んで免疫をつけることも大事だろう。

 

 さて、君はこの嘘で塗り固められたハウツー記事から何を得られただろうか?

 

「自分は何者にもなれない」と本当に信じているなら今すぐ散歩しろ

 どうやら社会とかいう場所には、自分を「何者にもなれない」と卑下している輩が一定数いるらしい。けしからん!

 

 何?お前自体がそうだと?

 

 

バカヤロー!!!!!!!!!!!!!!

 

 散歩しろ!!!!散歩!!!!

 

 俺は毎日1万歩は散歩しているからか「私はもしかしたら釈迦の生まれ変わりかもしれない」と思うことが1日に5回はあるぞ!!!!

 

 道は無!!

!!!!!!!!!!

 

今すぐ歩け!!!!!!!!クロマニョン人くらい歩け!!!!!!!!!!

 

 

 

目次

・「何者にもなれない」という危機意識を持ってるだけ、他の人より数段マシ。だから歩け!

・そもそも何者ってなんだよ?お前は定義を言えるのか?言えないなら歩け!

・曖昧な幻想を追うな、目の前のパスタと本を愛せ。そして歩け!

・自分の蓄積を愛せない人間は自滅する。したくなけりゃ歩け!

・散歩は最古にして最強のライフハック。とにかく歩け!

・「社会人」「大人」なんて、19歳以下と20歳以上を恣意的に分断するくだらない言葉に過ぎない。それよりも歩け!

・おわりに:人生は「自分は何者にもなれない」と悟ってからが本番。さあ、歩け!

 

 

 

・「何者にもなれない」という危機意識を持ってるだけ、他の人より数段マシ。だから歩け!

 

 そもそも「何者にもなれない」なんて実存哲学的なことで本気で悩む奴はそんなにいない。死ぬ寸前まで追い詰められる奴に至っては天然のタスマニアデビル並みの希少性だ。もし君が何者にもなれない苦しさで今にも死にそうなら、君の自己愛の強さは最早芸術品だ、誇ってもいいだろう。何の役にも立たないが。

 

 インターネットではエコーチェンバー現象によって同じ意見を持つ人間が集まりやすい。その結果「同世代の人間は皆自分と同じ悩みを抱えている」と勘違いしてしまうのだろう。

 

 だが少し周りの世界に目をやれば、存外「何も考えてない人」が多いことに気がつく。無批判に学校に行き学校に通わせる人、無批判にマスメディアの報道を受け入れる人、無批判に快楽と競争を求める人、そして無批判に他人に「お前は何者にもなれない」と言える人……

 

 彼らは「集団の中にいること」しか自分の存在価値が無いと本気で信じている危うい人間だ。 インターネットの匿名性が及ぼす万能感を振り翳して、自分は何もしていないのに何かをしている人を平気で糾弾し、社会を啓蒙している感覚に陥っている只の凡人だ。肉屋を支持する豚だ。

 

 そんな人間の姿は見て、あるいは自分自身がその一員になってることに気がついた貴方は「そろそろ私ヤバイかな?」と無意識のうちに感じていたのだろう。そんな貴方をRescue meできる究極の解決法がある。散歩だ。

 

 

 お前は他の人よりうーんと聡明なの。分かった?分かったら散歩しろ散歩!!!吐くまで歩け!!!靴底がなくなるくらい歩け!!!!!

 

 

・そもそも何者ってなんだよ?お前は定義を言えるのか?言えないなら歩け!

 

 「何者にもなれない」とは、何なのだろうか?

 

 立派な肩書きを持つことだろうか?とりあえず自分一人の力で生きていけるくらいの経済力を得ることだろうか?作家や漫画家のように「何かを生み出す」ことだろうか?

 

 世の中そんな奴は山ほどいる。山ほどいるが、大抵暗い顔をしている。他者から見れば羨ましい立場でも、当事者からすれば当たり前の日常に過ぎないからだ。

 

  結局、私が行き着いた答えは「『自分は誰にも必要とされていない』と自分が感じていること」だった。

 

 なるほど、そう措定すれば「不動産王で年収20億円だが、私は何者にもなれていない」ということもあるだろうし、「僕は小学生だが、何者かになれていない訳ではない」ということもあり得るだろう。他者に言う場合は「『その人は誰かに必要とされている』と自分が判断している」時、人は他者に対し「貴方は何者にもなれていない」というのだろう

 

 だが、こんな定義に一体何の意味があるのだろう?「自分は何者にもなれない」と泣訴する人はたくさんいるし、他者に対して「お前は何者にもなれない」という言葉もたくさん聞く。だが、「私は何者かになっている」とか「君は何者かになっているね!」と肯定的な文脈で使われることはまず無い。 こんな不幸しか生まない言葉を使うこと自体が、そもそも何の役にも立たないのではないだろうか。

 

 

 ね?「何者にもなれない」なんてくだらない概念でしょ?そんな曖昧模糊とした言葉よりもっと現実的に得られる幸福があるよね、それはもちろん散歩だよね。

 

 

・曖昧な幻想を追うな、目の前のパスタと本を愛せ

 

 結局のところ、未来の自分なんて分からないし、「自分は何者かになれるか」などという限りなく勝算の低い賭けに挑む必要性も皆無だ。貴方はどうあがこうが今、そこにいる。仕事がなくなったり退学したり刑務所に入れられた程度ではそうそう死にはしない。

 

 そんなことよりとりあえず今、目の前のものに意識を向けてみないか。これは何も「今を楽しめ」とか「明日のことは考えるな」といった刹那主義者になるための素敵なレクチャーをしているわけではない。

 

 肩の力を抜いて、ちょっとだけマインドフルネスに生きてみないか。換言すれば、曖昧な概念や未知なものへの恐怖を一旦取り外し、目の前の文章や、会話や食事にもっと真摯に挑んでみないかという提案だ。

 

 テレビやスマホという注意をそらせる物から一旦離れて、目の前のパスタを食べることに集中するんだ。プリプリとした噛み応えのデュラムセモリナに、シンプルなオイルソースがうまく乳化されて調和している。塩加減はどうだろうか。量は多いだろうか、少ないだろうか。

 

 マインドフルネスなものの捉え方は「時間」に対しても勿論可能だ。未来に対して漠然とした不安を追うのではなく、明日一日の計画を練ってみるんだ。7時から8時の間に起き、朝食を食べ、3分間歯を磨き……と言った具合で。

 

 そうして一つ一つのことをシングルタスクで片付けて行くと、少しずつ自分の頭の中の「世界」や「時間」の解像度が高くなってくるのを感じないだろうか。そうなればしめたものだ。君は「パスタ」と「明日」について、より確実で経験的な知識を得ることに成功したのだ。そういう解像度の高い目印がたくさん存在すると、脳内世界は整理され、どんどん歩きやすくなる。

 


 ところでパスタを食べたら食後の運動がしたくなるよね。そんな時役に立つのが君の脚だ。10分も歩けば効果てきめん、清原もびっくりのセロトニンパラダイスが君を待っている。

 

 

・自分の蓄積を愛せない人間は自滅する。したくなけりゃ歩け!

 

 私が「アイデンティティの危機に瀕する10代〜20代」について、書籍や当事者のツイート等を読み漁って直感したことがある。

 

 それは「アイデンティティの欠乏は、自分の歴史への軽視から起こる」ことだ。例えば、日本では大学院で博士課程課程まで進んだ人や研究職の方の自殺が非常に多いのだ。

 

 もちろん日本のアカデミズムが未曾有の危機に瀕していて、ポスドクや研究者の待遇が極めて悪いことは私も(当事者ではないから完全にとは言わないが)知っている。

 

 だからといって、自ら命を絶つことはないだろう。貴方には貴方にしかない「蓄積」があるじゃないか。

 

 貴方は自分のことを、「自分と同じ肩書きの他の人」と全く同じ物質だと勘違いしているかもしれない。そして同じ肩書きを持つ周り人々と比べ自分が劣っていたり、その結果肩書きを失ったりすることは死ぬのと同等の苦しみだと考えている。だがそれは違う。貴方の知識や趣味、読書歴や好きなゲームやブランドや恋愛経験、それらを全て内包している存在は貴方だけだ。

 

 貴方は自分では気づいていないかもしれないが、貴方が思っている以上にめちゃめちゃユニークだ。辿ってきた歴史も、今の姿も。そういう自分のユニークな「蓄積」を愛せないうちは、アイデンティティ形成への道など開くはずもない。

 

 私は他人に誇れるような学がないから、大学院生や博士なのに経済状況程度の理由で自分を卑下している人を見ると「バカか!!!!」と頭を叩きたくなる。叩いたついでに小卒くらいにクラスダウンしてくれないかな、とか思う。

 

 私は容姿が良くないから、顔がいい奴が不幸そうな顔をしてるとアンパンマンの要領で自分の顔を投げつけて交換したくなる。交換したついでに生殖器カレーパンマンにならないかな、とか思う。(マジで何も思いつかなかった)

 

 だが私は、そんな私の蓄積を愛している。私は好きな本や映画について何時間でも語れる自信があるし、私の知識は偏っているが故に唯一性が高いと信じている。私の今までの人生は相当ユニークで面白かったと信じている。

 

 これは「未来や自分に対して、不確実な信頼を根拠なしに持て」ということではない。ビジネス書や自己啓発書が言う「とにかく自分の成功を信じろ!イメージすれば全て叶う!」なんてのは嘘八百もいいところだ。ああいった本を100冊読んだって貴方はビルゲイツにはなれないし、北川景子似の彼女や玉木宏似の彼氏は出来ない。私が言いたいのは、社会的に成功しようがしまいが、その成功と失敗の軌跡を愛していればそれでいいんじゃないか、ということだ。

 

 ショーペンハウアーの言葉を借りれば 、「世界」や「社会」など所詮は貴方の脳が生み出す「表象」に過ぎない。貴方が死ねば貴方の表象としての世界は消滅する。貴方の脳と貴方が知覚する世界は一連托生なんだ。だからこそ自分の脳内世界を愛せない限り、世界も貴方を愛してはくれないだろう。

 


 ところで人生における最良の「蓄積」って何だと思う? それはね、「歩数」だよ。僕は1日の終わりに歩数を確認してエクスタシーに達するのが日課なんだ。とっても気持ち悪いね。

 

 

 

・散歩は最古にして最強のライフハック。とにかく歩け!

 

 流石にそろそろ散歩の話をしようと思う。とはいえ散歩の素晴らしさなんてネットで検索すればアホほど転がっているので、やっぱりやめよう。

 

 でもやっぱりちょっとだけ話そう。

 

 我々人類はその700万年もの歴史のうち、699万年以上を狩猟採集民族として暮らしてきた。

 

 狩猟採集社会はきわめてシンプルだ。彼らは10人程度のグループで生活する。普段は僅かな木の実や穀物などを取り、数日に一回狩りをしてタンパク質や動物性脂肪を確保する。定住はせず、場合によっては1日20キロ以上歩くこともある。

 

 こう聞くと過酷な感じがするが、実は違う。「彼らは文明社会で暮らす我々より遥かに幸福だったのではないか」これが私の持論だ。というのも、クソ愚かな文明人と違って彼らは「とどまることの危険性」を本能的に理解しているのだ。

 

 同じところに定住すれば衛生環境が悪くなり、病気になる。同じ場所で食べ物を取り続ければ植物や動物がいなくなり、生態系が破壊される。立ったままや座ったままでは血流が滞り、筋肉も衰える。だからこそヒトは狩猟採集という「移動し続ける仕組み」の中で700万年も生きながらえた。

 

これが「環境が彼らにそうさせた」のか「彼らがそう学んだ」のかは生物学者に解釈を任せるとして、少なくとも言えることは、私たちはそうやって循環型の生活を送っていた生物のDNAを保有しているということだ。

 

 私は根本的に、「社会」とか「責任」とか「幸福」といった概念を信用していない。人間など所詮、少しお利口な哺乳類の一種に過ぎないからだ。その物差しを導入することで我々の生活がより豊かで自由になるのなら信じることも吝かでないが、大半の人間は社会に押しつぶされ、責任を押し付けられ、幸福を感じられず自縄自縛になっているだけだ。

 

 フランスの哲学者ルソーの根本思想に「自然に帰れ」というものがある。これは決して「文明はクソ!自然状態最高!全員今から狩猟採集民になろう!」というものではない。分かりやすく言えば「今更人類は原始社会に逆行することは不可能(滅亡する方がまだ簡単)だし、文明が悪いっつったってそれを作ったのは他でもない人間なんだから、とりあえずその利便性は残したままで自分たちの内的な自然を取り戻そうぜ!」というものである。

 

 今から300年も昔の人物であるが、彼の慧眼は文明社会の欺瞞を見つめ、その上で現実的な解決策、つまり文明と自然の共存方法まで考えていたのだ。とても5人の子供を孤児院の玄関に置き去りにしたクズの思想とは思えないね。

 

 我々は今、これまでに無いほど大きな時代の転換期に立たされている、と錯覚している。実際には、氷河期や革命や戦争など、現在以上に変化が求められ、生存が困難だった時代は山ほど存在する。私たちが本当にすべきなのは、思想や思考の枠組みをファッションのようにコロコロ場面変化に応じて付け替えることだろうか。それとも人間という生物の本来の姿を、忘れそうになるたび再確認することだろうか。この問いに応えようとすれば、君の身体は自然と「歩く」という行為を始めるだろう。

 


 散歩が肉体にとっても精神にとっても良いことは科学的事実なんだ。だから出不精な科学者は全員死後地獄に落ちると「タルムード」にも書いているよ。嘘だよ。

 

 

・「社会人」「大人」なんて、19歳以下と20歳以上を恣意的に分断するくだらない言葉に過ぎない。それよりも歩け!

 

 閑話休題散歩などという世界の本質からすれば至極どうでもいい話は置いといて、今度は私が嫌いな言葉ワースト2「社会人」と「大人」を糾弾していこうと思う。

 いや、いいか。トピックのタイトルでだいたい言いたいことは全部言ってるし。なんかえらい人も「本文は目次の膨大な注釈である」的なこと言ってた気がするし。

 


  既に「社会人」や「大人」になってしまったって? そんな状況でも取り戻せる無垢が一つだけある。散歩だ。スタジオジブリの女の子くらいのテンションで歩けば君の心はあっという間に10歳に若返りするだろう。

 

 

 

・おわりに:人生は「自分は何者にもなれない」と悟ってからが本番。さあ、歩け!

 

 なんであんなことをさせるのか未だにに納得いかないのだが、日本の小学校では先生が児童に「将来の夢」と称して自分がなりたい職業を問うという地獄のようなイベントが1年に7万回くらいある。そんなことやってる暇があるなら、どんな仕事にも価値があることを教えたら?


  分かりきっていることだが、子供の「将来の夢」は十中八九実現しない。

「サッカー選手」「プロ野球選手」なら実現確率はほぼ0に等しく、「数学者」「パティシエ」でもまず不可能だ。

 

 イレギュラーなケースとして、未来に対して非常に現実的な視野を持っている子供が「公務員になりたい」「サラリーマンになりたい」と建設的な夢を抱くことがある。だが残酷なことに、その子が仮に表面上公務員やサラリーマンになれたとしても、本来求めていた「安定」や「所帯」や「楽な労働環境」は手に入らないかもしれない。夢とはそれくらい儚いのだ。

 

 私の場合は夢が「医者」だった。何かの間違いで名門校に入学できたまでは良かったが、呼吸するように勉強する級友たちの姿を見て諦めることにした。

 

 そこは凡俗な自分にとってはあまりに純粋な世界で、全てにおいて「全力を持って追求する姿」しか存在しなかった。勉強、サボり、趣味、部活動、読書、ゲーム……何をするにおいても彼らは完璧に、隅々まで楽しみ尽くしていた。「自由」を標榜していた学校で、制服や厳しい校則はなかったのだが、その暗流には常にエリート的な美しく厳しい空気が漂っていた。

 

 何事にも精力的に打ち込んだ級友たちとは裏腹に、私はあらゆる世界を知ろうとして、結局どの世界も本当に知ることはかった(「あらゆる」を漢字で書くと「凡」という字が出てくるのはなんという皮肉だろうか)。今でも自分の人生設計の甘さを後悔する。最早私は「立派な大人」には逆立ちしたってなれない。

 

 だが立派な大人への道が断たれて初めて得られたものもあった。上手いパスタの作りかた、散歩の楽しさ、難解な本の小狡い読み方……どれも「医者になって全てを手に入れた私」からすれば取るに足りない、つまらないと感じるものばかりだろう。何も持たず、何も出来ず、誰からも必要とされていないはずなのに、やけにそんな自分が心地いいのだ。

 


 暇つぶしにもならない記事をここまで読んでくれた貴方に言いたいことがある。まずは読んでくれてありがとう。そして、こんな名も知れない奴が書いた、ネットの海の漂流物に目を通すくらいだから、おそらく貴方は大なり小なり今人生の苦境に立たされているのだろう。

 

 立派な大人になるかどうかなんてわからない。


 夢が叶うかどうかなんてわからない。


 今逃げたら全てが泡沫に帰すかもしれないし、だからといってがむしゃらに頑張っても何の見返りも得られないかもしれない。


 でも一つだけ言えることがある。貴方は今まで生きてきたじゃないか。この矛盾だらけのクソみたいな世界で、貴方は生き抜く術を独自に編み出して、今日まで生き長らえてきたじゃないか。


 その方法は世間一般的に見れば「逃げている」とか「現実から目を背けている」と映るかもしれない。精神医学的には「防衛機制」と定義されるのだろう。


 だが現に貴方は生きている。それは凄まじいことだ。奇跡的な強さだ。私には貴方の置かれている環境も、つらさも、分かってあげることができない。ただ貴方が今生きていることを祝福することしかできない。

 

 私はありとあらゆる集団的な存在(右翼、左翼、中道、社会、会社、国、学校、ネットのアノニムなコメント達、etc……)を嫌っているし、それと同じくらい個人である貴方を愛している。オルテガの言う「大衆」になることを恐れながらも、生きるには集団に属するしかないと日々葛藤している貴方を愛している。

 

 私には貴方の考えていることが手に取るように分かる。なぜなら文章とはは貴方の鏡だからだ。私の望む望まないに関わらず、貴方はこの文章を貴方の解釈で自由に読み取る。それでいいんだ。

 


 さあ、湿っぽい話はやめて散歩に出かけよう。靴紐は結んだ?トイレは済ませた?お気に入りの音楽はプレイリストに入ってる?

 

 これは散歩上級者の僕からの忠告ーー平日の昼間や深夜に散歩するなら、職質された時のシミュレーションは万全に。

 

 


追伸)こうやって最終的に「感動」で締めちゃう自分に一抹の「島田紳助」を覚えて非常にアンニュイな気分です。気晴らしに散歩しに行きます。

より良いカルボナーラを作るために留意したい10の事項

 日本人が本場のカルボナーラを再現するためには途方も無い労力がかかる。今回は1おくまんちょうドル円個という膨大な量のカルボナーラレシピを精読し、2週間に1回は全日本カルボナーラコンテストで優勝している筆者が微力ながらアドバイスをしようと思う。

 

目次

・シェフでもないのにシェフの真似をするな

・オリジナルも作れないのにオリジナル性を出そうとするな

・材料の重さは小数点以下第一位まで測れ

・茹で汁の塩は親を殺すつもりで入れろ

・卵は思春期のチンコくらいすぐ固くなる

・生クリームを入れるか入れないかは両方試して自分で判断しろ

・迷ったら料理人より科学者を信じろ

・余熱調理に憧れる気持ちは分かるが、余熱を自在に操れるような料理玄人はそもそもカルボナーラの作り方程度で料理本を開かない

・グアンチャーレやパンチェッタが手に入らないからってメソメソするな。どうせ目隠しして食えば鶏肉と豚肉の違いも分かりはしない

カルボナーラの出来不出来に関わらず、やがてお前は広い宇宙の中でただ死ぬ

 

・シェフでもないのにシェフの真似をするな

 「シェフの真似をすればいい料理が作れる」これは料理が好きなのに料理が下手な人間に一番多い勘違いだ。

 一般に、卓越した職業調理師は材料を目分量で測り、二つ以上の作業を同時進行し、淡々と目の前の混沌(カオス)を処理して料理という秩序へと収斂させてゆく。その姿はさながらレオナルド・ダ・ヴィンチ堀江貴文が憑依したかのようであり、多くの調理初心者は魔術のような手際の良さに目を奪われる。

 しかしそれは長年における研究と実践の蓄積からくる必然であり、我々のような素人がその軌跡をなぞったところで同じような結果が得られる訳ではない。画家と同じように手を動かしても絵が描けないのと同じだ。まずは大まかな調理の流れを理解し、一つ一つの作業を丁寧に実行するしかない。

 

・オリジナルも作れないのにオリジナル性を出そうとするな

 自分で証明できない定理を使う高校生、原典を読んでいない癖に独自の解釈を盛り込む大学生、4分間の漫才も作ったことがないのにシュールネタに走るコンビ……

 結果を出すことが何より優先される資本主義社会において、さしあたりの解決策としてそのような手段を用いるのは大いにありだろう。しかし姑息な方法で段階を踏まず結果のみを求めたところで、後々苦しむのは自分である。

 より「正しい」カルボナーラを作りたいのであれば、まずはイタリア語で書かれたレシピか、せめて「カルボナーラ イタリア レシピ」「カルボナーラ 歴史」"Authentic Italian Spaghetti Carbonara"等のキーワードで検索すべきだ。

 

・材料の重さは小数点以下第一位まで測れ

 「だって平野レミは軽量せず適当に入れてるじゃん」と言いたくなるかもしれない。だが安心してほしい、貴方は平野レミではない。凡庸で経験もない人間は「つまみ」や「適量」という感覚的表現を出来るだけ廃し、トライ&エラーで少しずつ理想のカルボナーラに近づけていくしかない。

 

・茹で汁の塩は親を殺すつもりで入れろ

 パスタを茹でる際、お湯に塩を入れる理由には大きく分けて二つある。一つは「デンプンの糊化を適度に抑制し、つるつるぷりぷりの食感にすること」もう一つは「パスタに塩味をつけておくこと」である。「沸点を上げるため」とも言われているが、1〜2%程度の食塩では沸点はそこまで変わらない。

 パスタはうどんやラーメンと違い、麺自体に塩が含有されている訳ではない。そのため、ふにゃふにゃで味のない麺にならないためにも茹でるお湯には相応量の塩を入れる必要がある。勿論、「適量」ではなく貴方が試行錯誤の末見つけた最適な量を。

 また、日本の水は軟水だがヨーロッパ圏のほとんどでは硬水が流れている。硬水に含まれるミネラルは塩化ナトリウム同様パスタを美味しく仕上げるようになっているため、軟水で作る際はイタリアでのレシピより多めに塩を入れる必要があるだろう。もしくは地下に10000キロくらいの水道管を掘って現地の硬水を手に入れよう。

 

・卵は思春期のチンコくらいすぐ固くなる

 卵の成分の多くはタンパク質である。タンパク質に熱を加えると凝固(熱変性)することは有機化学を齧っているか風呂でマスターベーションしたことのある男子諸君なら知っているだろう。

 具体的には、白身は55度を過ぎた頃から固まり始めるが完全に固まるのは80度前後である。それに対し黄身は凝固し始める温度は65〜70度だが、その温度を維持すると完全に固まってしまう。このことから、黄身が固まらないカルボナーラを作るためには次の方法が考えられる。

・黄身だけで作るのではなく、白身を混ぜておく

・パスタと混ぜる時間を出来るだけ短くし、早くかき混ぜる

・事前にパスタの温度を少し下げておく

・生クリームを混ぜる

 そう、ここでいよいよ登場するのがカルボナーラを語る際必ず槍玉に挙げられる「生クリーム」である。パスタの本場イタリアでは基本的にパスタに生クリームを入れない。しかしながら店によっては卵が固まるのを防ぐために生クリームを入れることもあるようだ。

 日本においては「生クリーム入れる派」と「生クリーム入れない派」がおよそ50年以上にわたり壮絶な内戦状態にある。過去には入れない派が統治する市町村で生クリームを入れた家族が3世帯まるごと処刑されるという生々しい事件も発生した。しかし10年前に制定された「生クリーム入れようが入れまいがどっちでもいいでしょ法」により国民の思想信条の自由は守られた。

  ではこの究極の難問「カルボナーラに生クリームを入れるべきか否か」にどう立ち向かえばいいだろうか。

 

・生クリームを入れるか入れないかは両方試して自分で判断しろ

 以上。

 

・迷ったら料理人より科学者を信じろ

 先程は洗練された技術を持つ料理人を褒めちぎったが、所詮奴らなど自分の経験でしかものを話せない小卒のクズである。サンプル数1での結果を拡大解釈するような輩の言うことより、バイアスに左右されない科学的データを信じよう。

 

・余熱調理に憧れる気持ちは分かるが、余熱を自在に操れるような料理玄人はそもそもカルボナーラの作り方程度で料理本を開かない

 トピックのタイトルを長くしすぎると書く内容が無くなるという好例である。

 

・グアンチャーレやパンチェッタが手に入らないからってメソメソするな。どうせ目隠しして食えば鶏肉と豚肉の違いも分かりはしない

 上に同じ。

 

カルボナーラの出来不出来に関わらず、やがてお前は広い宇宙の中でただ死ぬ

 ここまで長々と文章を綴ってきたが、こんなものを読んでカルボナーラを作ったところで私も貴方も100年もすれば死んでしまう。その絶対的事実の前にはパスタの美味い不味いなど無意味で、我々が日頃抱いている煩悩や情念や執着もとどのつまりは宇宙の塵芥に過ぎない。深く考えず、思うがままフライパンをゆすり、食欲に従うまま貪る。それでいいと思う。

 

以上。これを読んだ諸君が今後少しでも昨日より美味しいカルボナーラが作れるようになれれば幸いだ。

人生に閉塞感を覚えたら古典を読もう

 「古典」と聞くと、みなさんどんなイメージをお持ちでしょうか。

 

 難解で複雑?

 古臭い考え方の人が書いた古臭い本?

 学校で無理やり勉強させられるよくわからない文章?

 

 そのように思われる方が多いでしょう。

 しかし、実際の古典は、書店で平積みされているビジネス書や自己啓発本なんかよりずっと人生に役立つ、人類の叡智の結晶です。

 なぜ古典が素晴らしいのか?僕なりに考えたその理由を2点挙げさせていただきます。

 

 

1:古典は名著しかない

 いきなり論理が全盛期の池谷直樹並みに飛躍しているような気がしますが、これは紛れも無い事実です。

 現在も読まれている古典というものは、全て時代の変化による淘汰を経てもなお残った作品ばかりです。

 1000年、2000年も前に書かれたにもかかわらず、それらの作品は現在においても輝きを失っていない本物の名著です。

 確かに、現代の本でも名著と呼ぶにふさわしい優れた作品は多々あります。しかしそのうち、一体何冊が100年後でもなお多くの人間に読まれているでしょうか?

 今の名著と、古典の名著はその「名著度」が段違いなのです。

 

 

2:古典は簡単に手に入る

 古いものは価値がある。これは何も書物にかかわらず、美術品やジーンズでも同じです。

 もっとも、それらと古典の間には大きな違いがあります。

 それは「手に入れやすさ」です。

 アンティークの美術品やヴィンテージジーンズなどは、どれもその希少価値ゆえに大変高価です。

 しかし、古典はそこいらの本屋で安価で買うことができます。

 「論語」も「徒然草」も「ツァラトゥストラかく語りき」も、ジュンク堂の文庫コーナーに行けば1000円以下で手に入ります。図書館に行けば、その買い物すら不要です。

 また、「青空文庫」というサイトに行けば、著作権が切れた作品を無料で閲覧することができます。

 

 

 どうです?古典を読みたくなってきませんか?いま自分の人生に行き詰まりを感じている人は、目につくタイトルの本(「5秒で◯◯できる本」「成功できる◯◯の法則」等)に近視眼的に飛びつく前に、偉大な先人が残してくれた遺産を読んでみてはいかがでしょうか。

 

自殺にすら「迷惑」という概念を持ち込む人々の気持ち悪さ

 この国では、ほぼ毎日誰かが何処かで自殺をしています。

 

 彼らが自殺を完遂する理由は、うつ病をはじめとした精神病に依るものであったり、虐待やいじめが原因であったり、はたまた誰かへの復讐であったりと様々です。

 

 そして、自殺者が十人十色であるのと同様に、自殺に対する人々の反応も多種多様。その全てにいちいち非難したり賛同したりするつもりはありませんが、唯一引っかかりを覚える言説があります。

 

 それは自殺——特に電車への飛び込み自殺——を「迷惑だ」と捉える意見です。

 

 

 確かに、電車飛び込み自殺は他の自殺方法と比較しても突出して広範囲の人間に悪影響を与えます。通勤ラッシュや帰宅ラッシュの時間帯であれば尚更です。

 

 その場に居合わせた人たちの時間が奪われるだけでなく、間近で現場を目撃してしまった人はきつい精神的ダメージを負います。

 また、遺族は自殺した家族を悼む暇もないまま、多額の賠償金を背負わされてしまうでしょう。

 

 しかしながら、そういった悪影響の責任を全て、死んでしまった自殺者になすりつけるのは早計ではないでしょうか?

 

 

 自殺する人間は、程度の差はあれど自分の人生に絶望しています。多くの場合、自殺を選んでしまう人は「これ以上、家族や社会に迷惑をかけたくない」という思考に陥っています。自分の存在によって誰かが迷惑を被っている姿をもう見たくない。極限まで醸成された自責の念、罪の意識が、人を自殺に駆り立ててしまうのです。

 

 そんな彼らとは対照的に、起きてしまった自殺に対し「迷惑」などという観念を持ち出す人たちのなんと浅ましく、無責任で自己中心的なことでしょう。

 

 恐らく彼らの傲慢な物言いは、「自分は自らの力だけで生きている」「自分は社会に貢献している側の人間だ」という自負からくるものでしょう。そのような考えはあまりにも視野が狭く、厚顔無恥としか言いようがありません。

 

 人は生きている以上、誰かに迷惑をかけています。いま現在一人暮らしをしていて自分の収入だけで食っている人であっても、子供の頃に親や先生に迷惑をかけ、周りの人間に頼っていたからこそ今の生活があるのです。人は社会という持ちつ持たれつの環境の中にいることで、人としての尊厳を保つことができるのです。

 

 それを「自分は誰にも迷惑はかけていないが、あいつは他人に迷惑をかけている」だとか「働いている人だけが生きる価値がある」と感じてしまう人がいるのは、現代社会の不幸と言わざるを得ません。恐らく、日本の全体主義的な教育によって、そのような偏狭な価値観が培われてしまっているのでしょう。

 

 一人一人が全体の足を引っ張らないよう頑張る"One for all"のみを子供に強制し、みんなが一人の個性を尊重し、短所をカバーしてあげる"All for one"をおざなりにしているうちは、プログラミング教育や早期英語教育なんかやったところで青少年の引きこもりも自殺も解決しないのではないでしょうか。

 

 

金玉の呼称 エロさTier表(最新版)

※ここに貼られているTier表は2017年10月現在のものです!

 

Tier0 ミルクタンク

Tier1 精子工場 タマタマ 

Tier2 キンタマ ザーメンタンク

Tier3 金玉 タマ 赤ちゃん部屋

Tier4 精巣 保育所

Tier5 睾丸 

 

 

 

 上から順に解説してゆく。

Tier0

 Tier0には環境トップの最強呼称「ミルクタンク」のみランクイン。

 圧倒的なエロさで他を寄せ付けないこの呼称は、エロ漫画やCG集に留まらず最近はオナサポ音声にまで活躍の場を広げている。今後も相当なぶっ壊れ呼称が現れない限りミルクタンク一強の状況は変わらないだろう。

 

Tier1

 Tier1には「精子工場」と「タマタマ」が入った。

 以前からT1を定位置としている「精子工場」はともかく、眼を見張るのは「タマタマ」のT3→T1への大出世。これはオナサポ音声において、耳元で囁かれた時の異次元の高火力が評価されたと考えられる。

 

 

Tier2

 中堅にしては強いがトップクラスとまではいかない。プロ野球選手で言えば全盛期桧山、アカギで言えば浦部というこの層に位置するのは「キンタマ」と「ザーメンタンク」の二つ。

「ザーメンタンク」はTier0のミルクタンクとは修飾語が違うだけだが、恐らく使用頻度の少なさが評価を下げたのだろう。

 

Tier3

 Tier3に位置するのは「金玉」「タマ」「赤ちゃん部屋」の三つ。

 同じ「きんたま」という読みでもカタカナか漢字かでランクが変わってしまうところが金玉の呼称界の層の厚さ、厳しさを物語っている。

 また「赤ちゃん部屋」は、エロさこそ十分だがその呼び名が子宮の呼称と被っているため、総合的にこの位置に落ち着いた。

 

Tier4&Tier5

 Tier4には「精巣」「保育所」「玉」、Tier5には「睾丸」が入った。ここに位置している呼称は、余程の愛がないと運用は難しい。とはいえ、以前はTier2だった「精巣」や、赤ちゃん部屋と同じ理由で低評価となった「保育所」などはまだまだ伸び代があり、今後に期待だ。